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中島岳志「中村屋のボース」

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

 この本は、近年論壇の頻繁に登場されている北海道大学中島岳志准教授が書かれた渾身の力作であり、大佛次郎論壇賞を受賞されています。

 「東アジア共同体」が盛んに叫ばれる今日、第二次大戦前という時代にインドまでをも視野に入れた「東アジア共同体」構想がすでに存在し、それを推し進めようとして苦い挫折を味わったボースという人物を取り上げて描くという「選球眼」の良さが何よりも秀逸と言えます。

 ボースはかつてインドで反英独立運動を展開した急進的な独立運動指導者であり、「ハーディング総督爆殺未遂事件」を引き起こしたことによってイギリスから追跡され、1915年に日本に亡命してきたインド人です。当時は日英同盟が結ばれていたため、日本においてもボースは官憲に負われる身となり、国外退去を命じられましたが、ボースが日本で知己を得た頭山満らの計らいによって新宿中村屋に身を隠すことになり、そこでインド料理を作って女中たちに伝授したのが今日の「インドカリー」のルーツとなったのです。

 ボースはその後、頭山満らの玄洋社黒龍会のメンバーらと共に「アジア主義」を主張する政治運動を日本国内で展開していきます。ボースの運動の原点は元々反英にあったことから、その主張の軸は西洋の帝国主義を批判し、アジア諸国の独立を達成することにありました。一方、ボースは、日本のアジア主義者たちが帝国主義的態度をとっていることに対しては当初批判を展開します。

 しかし、亡命中のボースは日本政府の支援によってインド独立運動を展開しなければならない身であったわけで、アジア解放を唱えながら日中戦争に突入していく日本政府の方針について「支那事変は日中両国の抗争にあらず」として賛同を示すことになり、イタリアとドイツによるアフリカにおける植民地政策にも賛同することになります。結局、ボースは、同朋であるインド国民軍のメンバーと日本政府との間で板挟みになり、インド人の同朋たちから「ボース=日本の傀儡」というレッテルを貼られることになり、失意の中で病に倒れ、1945年1月に生涯を終えたのでした。

 このボースの試みと挫折から読み取るべき今日的教訓は何か。重要な点は、ボースはインドを独立させアジア主義の理想を実現させるために、日本という帝国主義国家の軍事力に依存せざるを得なかったという点でしょう。

「近代を超克し東洋的精神を敷衍させるためには、近代的手法を用いて世界を席巻する西洋的近代を打破しなければならないというアポリア」(同書332頁)

 この課題は今日のアジアワイドの運動にとっても生き続けている教訓と言えます。

 こうした教訓の踏まえるためには「アジア共通の価値」を見出すことが重要となってくるわけですが、中島氏は「論座」2006年3月号の論文「その先の東アジア共同体へ 日中戦争期に哲学者・三木清はどう行動したか?」の中で、昨今の東アジア共同体論について「肝心の「アジア的価値とは何か」という問いが完全に希薄化している。」と述べています。このように思想的課題が欠如したアジア主義では、結局は戦前と同様に思想が現実の追認に走ってしまうおそれがあるということを中島氏は危惧されているように見受けられます。

 アジア的価値をどこに見出すかは極めて難しい思想的課題です。中島氏も指摘しているとおり、戦前に三木清が仏教的な「無」の思想を取り上げたことは、アジア共通の価値を見出す試みとして評価しうるものの、「実践」の立場を重んじた三木の姿勢は結局、権力へ取り込まれていく方向に思想を導いてしまったわけです。

 「思想としてのアジア」が今日においても重要な未解決の問題であり、今後この困難な課題に取り組んでいかなければならないことは全くそのとおりだと思いますし、それは壮大な思想的なチャレンジと言えそうです。