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経済学について

 『論座』7月号では、「「経済」が嫌いな人へ」と題する特集が組まれています。

 私もかつては、新古典派経済学の単純な論調に対して強烈な嫌悪感を抱き、ブログなどで感情的ともいえる意見を開陳してきた時期がありましたが、そんな「経済学叩き」にも個人的にはやや「飽き」が来たことも率直に認めざるを得ません。

 他方、小泉政権から安倍政権へと移行し、強力な新古典派経済学信奉者である竹中平蔵氏が閣内から去ったこともあって、世の中も、かつての規制改革支持一辺倒の論調から抜け出しつつあることも事実でしょう。

 最近の事例でいえば、規制改革会議の再チャレンジワーキンググループと労働タスクフォースの連名で平成19年5月21日に発表された「脱格差と活力をもたらす労働市場へ〜労働法制の抜本的見直しを〜」と題する文書が与野党から大きな批判を浴びて、規制改革会議の第1次答申に持ち込まれなかったことも、その1つの現れと言えるでしょう。この文書の内容は、既にマスコミやブログなどあちこちで取り上げられているのでご存じの方も多いかと思いますが、その思想的背景は、極めて単純な新古典派経済学の理解に基づくものです。

 代表的なフレーズを挙げれば、以下のような感じです。

「一部に残存する神話のように、労働者の権利を強めれば、その労働者の保護が図られるという考え方は誤っている。不用意に最低賃金を引き上げることは、その賃金に見合う生産性を発揮できない労働者の失業をもたらし、そのような人々の生活をかえって困窮させることにつながる。過度に女性労働者の権利を強化すると、かえって最初から雇用を手控える結果となるなどの副作用を生じる可能性もある。正規社員の解雇を厳しく規制することは、非正規雇用へのシフトを企業に誘発し、労働者の地位を全体としてより脆弱なものとする結果を導く。一定期間派遣労働を継続したら雇用の申し込みを使用者に義務付けることは、正規雇用を増やすどころか、派遣労働者の期限前の派遣取り止めを誘発し、派遣労働者の地位を危うくする。長時間労働に問題があるからといって、画一的な労働時間上限規制を導入することは、脱法行為を誘発するのみならず、自由な意思で適正で十分な対価給付を得て働く労働者の利益と、そのような労働によって生産効率を高めることができる使用者の利益の双方を増進する機会を無理やりに放棄させる。
 真の労働者の保護は、「権利の強化」によるものではなく、むしろ、望まない契約を押し付けられることがなく、知ることのできない隠された事情のない契約を、自らの自由な意思で選び取れるようにする環境を整備すること、すなわち、労働契約に関する情報の非対称を解消することこそ、本質的な課題というべきである。市場の失敗としての情報の非対称に関する必要にして十分な介入の限度を超えて労働市場に対して法や判例が介入することには根拠がなく、画一的な数量規制、強行規定による自由な意思の合致による契約への介入など真に労働者の保護とならない規制を撤廃することこそ、労働市場の流動化、脱格差社会、生産性向上などのすべてに通じる根源的な政策課題なのである。
 行政庁、労働法労働経済研究者などには、このような意味でのごく初歩の公共政策に関する原理すら理解しない議論を開陳する向きも多い。当会議としては、理論的根拠のあいまいな議論で労働政策が決せられることに対しては、重大な危惧を表明せざるを得ないと考えている。」

 こうした理解は、新古典派経済学のモデルにだけ載せて単純に考えた結果導かれたものです。要するに、政府による介入は極力避け、あくまで情報の非対称性の解消にだけ注力すれば、効率的な労働市場が実現されるという考え方です。

 しかし、近代以降の労働者を巡る歴史を一瞥すれば分かるように、

「労働者の権利を強めれば、その労働者の保護が図られるという考え方は誤っている。」

というのは誰が見ても筆が滑っていることは明らかであって、さすがの与党もこの規制改革会議の見解を支えることはできず、国会でも不適切なものと答弁せざるを得なかったようです。

 ちょっと前の時代にこうした文書が発表されたとしたら、人々の受け止め方はもう少し好意的だったかもしれませんが、こうした文書がほとんど全く支持を得なくなってきたことは、日本社会も狂気的な規制緩和志向から抜け出しつつあるということかもしれません。

佐藤俊樹「経済学(者)とのつきあい方、教えます」

 さて、『論座』の特集に話を戻すと、特集では様々な論稿が掲載されていますが、中でも私の従来からの見方と比較的近いのが佐藤俊樹東京大学准教授が書かれた「経済学(者)とのつきあい方、教えます」です。

 佐藤教授も述べておられるように、そもそも学問(特に社会科学)というのは、特定の角度から現実を単純化してみる技法であり、経済学の市場モデルも同様の単純化によって成り立っているものです。ところが、経済学者の中には、単純化していることを忘れてしまっている人が多いというわけです。佐藤教授は次のように述べておられます。

「単純化が悪いわけではない。市場モデルが悪いわけではない。単純化しているのを忘れてしまうのがまずいのだ。「市場モデルだとそうなるはずだから現実の政策もこうすべきだ」と短絡するのがまずいのだ。」

 この佐藤教授の言葉は、先ほどの規制改革会議から出された文書についてぴったりと当てはまる指摘です。

 現代社会は市場に大きく依存しなければ成り立たないことは言うまでもありませんが、その市場を分析する際に、やはり何らかの単純化は必要であり、とりわけ、市場におけるプレーヤーの行動様式を単純化して考えることは有効な手段であるわけです。しかし、他方で、市場のプレーヤーの行動様式を単純化して考えることは、市場の最も根源的な部分について仮定を置くことでもあります。したがって、そうした単純化されたモデルから導き出される帰結は、現実の社会にそのまま当てはまるわけではないことは当然です。ましてや、単純化したモデルを現実の社会に当てはめようという試みがいかに本末転倒なことかは、言わずもがなでしょう。

大竹文雄「「おせっかい」を学問する」

 この佐藤教授の立場とはある意味対極に立つのは、大竹文雄大阪大学社会経済研究所長の書かれた「「おせっかい」を学問する」でしょう。この論稿においても、経済学の市場モデルに基づき制度設計を行おうという大竹教授の強い意図が滲み出ています。

 ただ、この論稿の最後の部分において、大竹教授は

「ただし、社会は従来の経済学が想定してきた経済合理性だけでは説明ができない問題に満ちあふれている。」

という点を強調されている点は、注目に値します。

「伝統的な経済学では、人々は将来のことをきちんと考えて行動し、一度決めた計画は状況が変わらない限り変更しないと考えられている。・・・非合理性を前提にすると、一種の「おせっかい」が必要になってくる。」

 こんなことを今更ながら述べなければならない点に、経済学の「イタイ」ところが露呈されているのですが、まぁ、この点をはっきりと述べている点は、評価に値するでしょう。人間の行動が非合理的であることなど、少し自分自身や周囲の人々の行動を観察していればすぐ分かるというものです。

「規制をすべきかすべきでないかというのは、人間の非合理性をどう考えるかでずいぶん変わってくるものなのだ。
 伝統的な経済学は、市場がうまく機能しないときを除いて、そういうおせっかいは一切すべきではない、と考えていた。だが、非合理的なことをしてしまう人間行動を考慮すると、おせっかいなことをしたほうがよいかもしれない。
 どういうときにどんなおせっかいをすればよいのかということを考えることが、これからの経済学の中心になっていくのではないだろうか。」

 ・・・ご健闘を祈りたいと思います。

青木昌彦・加藤創太「社会科学は統合されていく」

 さて、もう1つ興味深い対談を御紹介すると、青木昌彦一橋大学特任教授と加藤創太国際大学GLOCOM教授による「社会科学は統合されていく」と題する対談です。

 青木教授は、世界的に著名な経済学者であるわけですが、特に有名なのは、ゲーム理論に基づく「比較制度分析」でしょう。私の拙い理解によれば、「比較制度分析」というのは、制度を均衡現象として捉え、しかも、複数の均衡点があるということを論じたものです。つまり、制度というのはある1つの形態に収斂していくわけではなく、例えばその地域地域の歴史や文化等々を考慮すれば、多様な制度に収斂し得るのだという理論です。

 この「比較制度分析」と従来の新古典派経済学とはどこが違うのか。青木教授は『経済システムの進化と多元性』という本の中で、おおよそ次のように説明しています。
 つまり、新古典派経済学は、ワルラス的な完全競争モデルを、最も効率的な経済システムとして理想化してきたわけで、とりわけ数理経済学は、市場の均衡としてはたった一つ、資源配分の最適性を満たすワルラス均衡のみが存在しうる条件(唯一性の条件)を模索してきた。ところが、「比較制度分析」においては、均衡は複数個あり、どの均衡にたどり着くかは、歴史的初期条件等に依存するのだ、というわけです。

「かくして、特定の制度配置が、なぜ他の経済ではなくある経済で進化を遂げたかは、ゲーム理論によって自己完結的に理解できず、比較情報と歴史情報にも依拠せねばならない。その含意は、制度分析が本質的に比較的なものにならざるをえないということであり、それゆえに比較制度分析(Comparative Institutional Analysis)と呼ばれるのである。」(青木昌彦『比較制度分析に向けて』p6)

比較制度分析に向けて

比較制度分析に向けて

 このような複数均衡という考え方から、例えば、アメリカにおいては、均衡点が完全競争モデルに近いものであったとしても、日本の高度成長期においては、長期雇用システムとメインバンクシステムによって成り立っている制度こそが均衡点であったという見方が出てくるわけです。

 さて、この対談の中で2人は、新古典派のモデルについて「ツルツルした幾何学的な形をしていて・・・」とか「新古典派のツルツルした世界で・・・」と表現しているのが印象的です。そうした「ツルツル」したモデルでなく、政策形成の場において、比較制度分析の活用を深めていくべきというのが、この対談における両者の議論の方向性です。

 この「比較制度分析」については、私も十分に理解しているわけではありませんが、経済学にとどまらず、政治、文化、歴史等々の他の分野にもつながっていく魅力というのは感じられるものの、ただやはり、「均衡」という結局は何か1つの在り方に制度が進化論的に決定されていくかのような概念には、やはり抵抗感を感じざるを得ないというのが正直なところです。


 冒頭の議論に戻れば、昨今、私の経済学に対する強力な嫌悪感が薄れつつあるのは、やはり時代がこれまでのような経済学至上主義から離れつつあるということが背景にあるような感じがしています。この『論座』の特集も、従来の自信に満ちあふれ我が世を謳歌する経済学の姿からは少し変貌しつつあるような気がしています。

 昨今のこうした状況に、ややホッとしたというのが正直なところです。