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「やがて哀しき外国語」

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

 村上春樹は、作家や翻訳家としてはもちろん、エッセイストとしても大変面白い視点からの優れた作品を書かれています。私が最近読んだのは『やがて哀しき外国語』という本で、村上氏が、その敬愛する作家フィッツジェラルドの母校であるプリンストン大学があるプリンストンに滞在していた頃の体験をまとめたものです。

 この本のタイトルがまた何とも奥深く、村上氏のセンスが光っていますが、このタイトルの由来について、村上氏は次のように書かれています。

「僕が本当に言いたいのは、自分にとって自明性を持たない言語に何の因果か自分がこうして取り囲まれているという、そういう状況自体がある種の哀しみに似たものを含んでいるということだ。」(講談社文庫p284−5)

 いかにも、様々な言語と格闘している村上氏から湧き出た言葉だと言えます。

 日本語にしても、それに取り囲まれていることが本当に自明かといえば、胸を張ってそうだと断言することはできないように思います。それは言語の問題だけにとどまらず、アイデンティティ全般について言えることでしょう。自分はこの国での生活を自明なものと思っていても、ある日突然裏切られて、ストレンジャーになるかもしれない。これは、海外に居住した経験のある多くの人が感じるある種の「不安」なのかもしれません。

 さて、この本は、村上氏の優れた観察眼によって、1つの卓越した日米比較文化論になっており、きらりと光るフレーズが数多くあります。そんな中から、いくつかのフレーズを紹介してみたいと思います。

「結局のところ、いい意味でも悪い意味でも、日本においては知的階級性というのがほとんど解体してしまっている。戦後しばらくはそういうものもある程度はシステムとしての力を持っていたのだが、コミュニズム名曲喫茶やら純文学やらの消滅と呼応するかのように、いつの間にかすっと音もなく消えてしまった。」

 村上氏によれば、アメリカの大学社会には、「大学人かくあるべし」という強い規範が存在しています。すなわち、大学人たるもの、新聞であればNYタイムズを読み、ビールであればハイネケンやギネスを飲む、といった感じです。しかし、日本社会ではそういう階級的な暗黙の了解のようなものはもはや崩れてしまっています。

 これは、考えようによっては、階級制度が解体された日本社会の方が歴史的に進んでおり、アメリカの大学社会においてもいずれは大衆化・平準化が進むとも考えられるわけですが、村上氏は、

「こういう浮世離れした社会がこの世の中のどこかにひとつくらい残されていてもいいんじゃないか」

と思ってしまうと述べています。こうした村上氏の感覚には、共感を覚えます。

 私も、戦後の日本社会が大衆化・平準化したことについては、これを歓迎する気持ちがある反面、いわゆる「ハイカルチャー」がなくなってしまった日本社会の文化的な規範というか、何か人々が憧れてそれを目指すという対象がなくなってしまったことも寂しく思う気持ちもあります。

 その代わりに人々の憧れの対象として登場してきたのが、大金を稼ぎ六本木の超高級マンションに暮らすホリエモンだったのではないか、そんな感じもしてしまいます。

 次に見るのは、アメリカ社会における郊外の実情についての村上氏の観察です。アメリカでは郊外を舞台にしたホラー映画が数多く制作されていますが、この事実から、村上氏は次のように論じています。

「そのような不気味で陰惨で後味の悪い「サイ*パス」映画が人々の共感を呼ぶのは(おそらく共感を呼ぶからこそ観客が入るのだろう)、基本的にはそれが今のアメリカの中産階級が心の底で感じているある種の不安を表象しているからではないかと僕は思う。…郊外には郊外の恐怖というものが存在するのだ。彼らオーディナリー・ピープルの多くは住宅ローンに追われ、レイオフの影に怯え、景気の果てしない後退に不安を感じ、アメリカの理想の変質に戸惑いを感じ、教育費や医療費の暴騰に頭を悩ませている。…「ごく普通にやっていればだいたいうまくいくものだ」という楽観性―中産階級にとっての最大の宝―がだんだんその効力と説得力を失いつつあるように僕には感じられる。」

 この10年以上前のアメリカ社会における観察は、正に今の日本社会についてのものと見違うほどです。かつての日本社会でも、アメリカ式のライフスタイルの実現を求めて、多くの中産階級が郊外のニュータウンに住み着いたわけですが、今日のニュータウンの実態を見れば分かるように、かつてサラリーマンの憧れの町だった痕跡は皆無です。ゴーストタウンのように人気がなく、子供の姿もほとんど見かけず、定年を過ぎた高齢者たちがひっそりと暮らしているようなニュータウンが数多く存在します。若いサラリーマンカップルは、むしろ都心部への回帰を志向しているような状況です。でも、かつての日本の高度成長期にあっては、郊外のニュータウンに家(できれば一軒家に)を購入して住むことが、安心した人生を過ごすための1つの通過点であったわけです。

 今日の日本においては、年金問題は殊更人々の関心を集めます。社会保険庁の年金納付記録が宙に浮いているとなれば、それがたちまち政治論争の中心的なテーマとなるわけですが、それは、人々の間に浮遊する漠然とした不安を象徴しています。安心した人生設計のモデルが音を立ててがらがらと崩れている時代だからこそ、人々は年金問題に激しく反応することになるのです。

 こうして見ると、今の日本は、アメリカ社会を後追いした形で、不安社会へと向かっていることがよく分かります。

 そして、最後に、アメリカ郊外に暮らす団塊世代の人たちについての観察です。

「彼らは六〇年代に政治意識の高揚を経験した人々であり、その多くはオルガナイザーとしての能力を秘めている。あるいはオルガナイズされることに馴れている。そして今彼らの関心は主として環境保全に向けられている。…六〇年代のように「法律上の差別が撤廃されて、人種間の機会均等が実現されれば、何もかもうまく行くんだ」といったオプティミスティックな見解を単純に信奉しているような人間はもうどこにもいないと言っていいだろう。それにそもそも彼らは、そういう人種的なフリクションが猛威を振るっているホットな環境をきらって都会を逃げ出してきたわけなのだ。だから彼らの目は堕胎問題やフェミニズムといった女性問題―そう、それはまだ解決可能な差別事項なのだ―か、あるいは地域的環境保護、地域的社会正義の実現というようなもっとミニマルな方向に向けられることになる。そしてその「地域」というのは、結果的には人口の大半が白人によって占められている社会を意味している。」

 団塊世代の人たちが、<大きな正義>に挫折し、郊外といういわば閉鎖的なコミュニティの中で、より<小さな正義>の実現に情熱を燃やし始めているというわけです。ここにも、アメリカ社会の抱える深刻な人種問題の根深さが表れていると言えます。

 しかし、そこにはある世代に共有されたある種の使命感みたいなものは感じられるわけで、村上氏もそうした点については一定の共感を示しているように見えます。

「僕はずいぶん長いあいだ「世代なんて関係ない。個人がすべてだ」という考え方でそれなりに突っ張ってやってきたわけだけれど、僕らの世代にはやはり僕らの世代の独自の特質なり経験なりというものがあるし、そういう側面をもう一度洗い直して、それで今何ができるかということをあらためて考えてみるべき時期に来ているのかもしれないとも思う。」

 日本の団塊世代も、世代としての一体感は他のどの世代よりも強いように思いますから、いずれは再び何らかの使命感を持って第二の人生における生きがいを見つけていくのでしょうか。

 以上のように、このエッセイ集は、村上氏による卓越した日米比較文化論に仕上がっています。戦後の日本社会は、あまりにもアメリカ文化の強い影響を受けたことから、日本人としてアメリカ文化を冷静に見つめることはなかなか困難な状況で、日本人による優れたアメリカ文化研究が数少ないように思われます。この村上氏のエッセイは、そうしたアメリカ文化研究の間隙を埋める傑作といっては言い過ぎかもしれませんが、読む人を随所で唸らせる本であることは間違いありません。