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映画、書評、ジャズなど

「ダンス・ダンス・ダンス」と高度資本主義

 最近、改めて村上春樹氏の「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」(以下「三部作」)と「ダンス・ダンス・ダンス」(以下「ダンス」)を一気に続けて読んでみました。どれももう10年ぶりくらいです。

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

 これらの作品は、主人公の「僕」を取り巻く「鼠」や数々の女性たちをめぐって展開されるストーリーなわけですが、「三部作」と「ダンス」の間の雰囲気には大きな「断絶」があり、それが80年代における社会の変化をどう捉えたらよいのかについての重要な示唆を与えてくれるような気がします。

 <80年代>という時代は、戦後日本社会論の中でもとりわけ難しい気がします。70年代以前という時代は、終戦直後の貧困から飛躍的な高度成長を遂げる<輝かしい>時代であると捉えることができるわけですが、高度成長終焉後の日本社会については、どうも説得力のある捉え方がいまだに打ち立てられていないように思われます。そうした中で、村上春樹の「ダンス」は、「高度資本主義」の特質を見事にフィクションとして描き出しているように思います。

 「三部作」が書かれたのは、79年から80年代初頭にかけてであり、「ダンス」が書かれたのは80年代後半ですから、実際に書かれた時期という意味でも、「三部作」と「ダンス」の間には時期的な隔たりがありますが、両者の間には、時代の雰囲気という面での大きな断絶が横たわっています。

 その象徴として描かれているのが、「いるかホテル」から「ドルフィン・ホテル」への大きな変貌であることはいうまでもありません。「羊をめぐる冒険」で登場する「いるかホテル」は、満州から羊に取り憑かれてまま日本に帰国した羊博士がひっそりと住む見栄えのしないホテルであったわけですが、それが「ダンス」では、ゴージャスで近代的な大規模なホテルである「ドルフィン・ホテル」として生まれ変わっています。そして、かつて「羊をめぐる冒険」の中で、羊博士が所有していた牧場で「僕」が出会った「羊男」は、近代的な「ドルフィン・ホテル」の中でひっそりと「僕」を待っている。がらっと、時代が変わってしまっているわけです。これは、日本社会における80年代における変化に相当しているように思えます。

 一連の作品の鍵を握る「羊」というのは、私には「近代以前から脈々と続いてきた古い精神」を象徴しているような気がします。「三部作」の中では、「羊」はまだかろうじて実在するものとして生き残っていたわけですが、それが「ダンス」になると「羊」はもはや人々の精神の奥底にしか残っておらず、高度資本主義の象徴である「ドルフィン・ホテル」の片隅で、ごく限られた人にしか出会えない存在となっています。人々の日常生活の中においては、見かけ上、「羊」はもはやすっかり失われてしまっているわけです。

 ところで、戦後の日本社会の1つの大きな転機は、1970年の三島由紀夫の割腹事件だったように思います。古き日本の精神の美学を追求してきた三島がこの世から去った時期を境に、日本社会からは古きものがきれいさっぱりと忘れられてしまい、社会は古い時代の精神との間をつなぐ術を失ってしまったように思います。そうして過去を吹っ切ったことによって、歯止めの効かない「高度資本主義」が始まったともいえるわけです。

 この「高度資本主義」は、「ダンス」の中で一貫して底流を流れているコンセプトです。「ダンス」において「高度資本主義」がどのように捉えられているかは、「僕」が「ドルフィン・ホテル」の中で「羊男」から聞かされる言葉の中に明快に現れています。この場面は、「ダンス」の中でもっとも重要なシーンだと思います。
 「どうすればいいんだろう、僕は?」と尋ねる「僕」に対して、「羊男」は次のように言います。

「踊るんだよ」「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だかた足が停まってしまう。」「でも踊るしかないんだよ」「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り。」

 これこそ、「高度資本主義」を生きる術といえるのではないかと思います。「高度資本主義」においては、人はとにかく踊り続けなければならない、それも上手に踊らなくてはならない、そして、何故踊らなくてはならないかなどと考えてはならないというわけです。

 結局、現代を生きる我々も、なぜあくせくと日々の生活を過ごさなければならないかなどと考えてはならないのかもしれません。淡々と日常生活をうまくこなしていく、それがこの時代を生きる上での最善の術なのです。

 こうした「ダンス」の描写は、フランスの思想家ボードリヤールが描く、「記号」社会の中での絶望感と相通ずるものがあるように感じられます。それはリスかごの中のリスといった方がわかりやすいかもしれません。生きている限りはとにかく踊り続けなければならず、一旦足を停めれば二度と再び元にもとることができなくなる、そんな絶望的な社会を「ダンス」は描いているのです。

 80年代にはやった様々な消費論というのも、突き詰めればこうした「絶望」から出発しているように思えます。そして、そんな「絶望」感を打ち消そうとして、「消費」を楽しもうといった消費論がこれまた展開されたわけで、今日の我々はいつの間にか「絶望」の中を生きる術をちゃんと身につけているようにも思えます。「ダンス」は、そんな社会を生きる人々の深層を深くえぐり出しているように思え、それが「ダンス」が大変評価される理由なのではないかと思います。

 村上春樹の小説は、米国、中国など世界の様々な国で広く読まれています。世界全体が「高度資本主義」社会ともいえる状況に突入している今、村上氏の小説はこれからも広く支持されるでしょう。

 「ダンス・ダンス・ダンス」を改めて読んで、村上ワールドに一層引き込まれ、はまりました。