映画、書評、ジャズなど

村上春樹について

 村上春樹論についても、適宜書いていきたいと思っています。

 昨年の11月、村上春樹に対してカフカ賞が贈られました。この賞は2001年に創設ということですから、まだ新しい賞ということになりますが、04年、05年の受賞者はいずれもノーベル文学賞を受賞しているということですから、相当な権威を持った賞ということなのかもしれません。いわゆる青春時代に『ノルウェィの森』を読んで育った者として、大変うれしく思いました。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 村上作品は、日本での人気もさることながら、海外での評価が高いことが特徴でしょう。アメリカでは『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』が広く読まれ、共産主義の中国でも海外小説家にしては異例の人気を誇っているようです。なぜ村上作品はこれだけ幅広い支持を得ているのでしょうか。それは、先進国を中心とした全世界を覆い尽くすポストモダンの閉塞感をうまく表現し、そのある種の打開策を提示しているからではないかと思います。
ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

 村上春樹の多くの作品には、強い意志を持たず、流れに身を任せて日常生活を送っている主人公が登場します。自分の存在意義など深く考えたりせず、肩肘張らない生き方を貫いているが、ひょんなことから非日常の世界に巻き込まれていく。そして、それが過ぎ去ればまた元の当てのない日常が待ち受けている。村上ワールドには、そんなムードが漂っているように思えます。『ノルウェィの森』でも、平凡な高校生活を過ごしていた主人公ワタナベが、友人キズキの原因不明の突然の自殺によって、キズキの元彼女である直子との間で複雑な関係を抱え込んでしまうことになる。結局、直子も自殺し、ワタナベは結局自分を見失い続けることになる。『海辺のカフカ』でも、主人公の15歳の少年が四国に行き、様々な事件に巻き込まれる。他方では、猫捜しの上手なナカタさんという老人も四国に向かい、同様に事件に巻き込まれていくことになり、この2つの物語が同時に進行していく。

トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった。」

という何とも印象的なフレーズで始まり、先般、イッセー尾形宮沢りえを初めとする豪華キャストと坂本龍一の音楽によって映画化された短編小説『トニー滝谷』も、孤独な主人公「トニー滝谷」が、洋服の買い込み癖があった妻に交通事故に先立たれ、その後、妻が残した洋服を着てもらうために秘書を雇うが、結局最後には孤独に戻ってしまう、というストーリーです。

 こうしたムードは、これまでのモダンの精神構造が崩壊しつつある中で生じている「ポストモダン」の風潮そのものと言えるでしょう。近代の発展史観が崩れてしまった今日の社会は、社会全体としての目標が失われてしまっている状況にあります。前に進むことが進歩であるという共通認識はもはや維持できなくなっています。飛躍的な経済成長を遂げ、モダンの真っ只中を突き進んでいるかのように見える中国ですら、そうしたポストモダンの風潮が文化的には漂っているようです(林少華「ひろがる「村上春樹現象」」、王敏編著『<意>の文化と<情>の文化』)。
“意”の文化と“情”の文化―中国における日本研究 (中公叢書)

“意”の文化と“情”の文化―中国における日本研究 (中公叢書)

 村上作品は、こうした「無目標」の時代を背景として物語が展開していきます。主人公はそうした時代の中で、流れに身を委ねて生きています。しかし、村上作品の中の主人公は、決して退屈な生活を送っているようには見えません。強い意思を持たなくても、なぜか非日常的な事件が突然巡ってきて、スリリングな出来事に巻き込まれていくのです。

 こうした村上作品の中の主人公の生き方は、私たちに次のようなメッセージを発しているように思えます。
ポストモダン社会においては、強い意志を持とうとしても、うまくは生きられない。深く考えず流れに身を任せて生きるのも、実は案外悪くないのではないか。」
 悲しいことに、これといった社会全体の目標が存在しないポストモダンの時代にあっては、「強い意志」というのは生きるための術というよりか、むしろかえって人を生きづらくさせてしまうものとなってしまったのかもしれません。村上春樹氏は、こうした生きづらい社会において、肩肘張らない生き方を我々に教えてくれているような気がします。