映画、書評、ジャズなど

佐藤百合「経済大国インドネシア 21世紀の成長条件」

経済大国インドネシア - 21世紀の成長条件 (中公新書)

経済大国インドネシア - 21世紀の成長条件 (中公新書)

 膨大な人口を擁するインドネシア。近年は急激な経済成長を遂げていることから、企業の投資先としての注目が再び大いに高まっている感がありますが、その実態はつかみ所のない印象を受けます。そこで、インドネシアの概要を大づかみに把握しようということで本書を手にしたわけですが、正直、インドネシアを良く理解できたというよりかは、インドネシアがつかみ所のない理由が何となく理解できたというのが率直な印象です。それだけ、インドネシアの経済成長の様相というのは、我々が思いつくような在り方とは違っているのです。

 インドネシアの注目すべきは、経済規模が大きい国が成長を遂げていることから、毎年創出される生産活動と市場の規模が相応に大きいという点です。1968年から96年の年平均経済成長率は7%にものぼります。スハルト政権が崩壊したときに経済成長率はマイナス13%にまで転落しましたが、その後政治体制の安定を取り戻すと、2007年には再び経済成長6%を回復します。インドネシアでは「6%」を超えたか超えないかで、失業率が増えるか減るかの明暗が分かれるとのことです。

 インドネシアの経済成長の源泉は「人口ボーナス」だと著者は指摘します。「人口ボーナス」とは、生産年齢人口が総人口に占める割合が上昇していく局面を指しますが、インドネシアの「人口ボーナス」期間の終了は早くて2030年でより遅い可能性もあるとのこと。この点こそ、インドネシアが持続的経済成長のチャンスを眼の前にしていると判断する所以であると著者は指摘します。

 中間層も急激に増加しています。2010年には総人口の半数を超えたとみられるようです。また、ジャカルタ周辺を含むジャボデタベク(Jabodetabek)の人口集積は世界屈指の規模で、この地域にインドネシアの人口が密集し、ここに大きな市場が形成されている点に特徴があります。

 そして、労働市場を見てみると、賃金水準は中国よりも低いことに加え、ベトナムと比べても、製造業作業員やマネージャー職についてはインドネシアが高いものの、非製造業スタッフはインドネシアの方がむしろ低くなっています。今後さらにその差は縮まっていくのではないかと著者は指摘しています。労働力の質について見ても、インドネシアの製造業作業員の質の高さには定評があるとのことです。

 さて、インドネシアでは1998年のスハルト体制の崩壊が大きな転機となっています。スハルト時代は開発という大義名分の下に国民の自由を制限することを正当化した権威主義体制だったと著者は指摘します。こうしたスハルト体制が崩壊して以降、インドネシアの政治体制は揺れてきました。国民の政治参加と自由な選挙も保障され、今では自由度が高い国として評価されています。ちなみに、インドネシアではかつて「国民協議会」が大統領の選出権を含む大きな権力を持っていました。このため、民主的に選出された大統領が国民協議会によって罷免されるという事態も生じてしまったことから、その位置づけが降格されたようです。さらに、大統領公選制が憲法上認められ、地方自治についても、これまでの典型的な中央集権から一転して、県や市に大きな権限が与えられるようになります。

 著者はこうした政治状況を見て、

「二〇〇四年、インドネシアは一つの新しい制度的均衡点に到達した。」

と述べています。2004年というのは、大統領直接選挙が平和裡に行われた年です。

 直接選挙で選ばれたユドヨノ大統領は、「汚職は犯罪」という新しいパラダイムを持ち込みます。またユドヨノは外交も得意としており、インドネシアはG20の一員にもなっています。そして、特定の大国の影響下に入らないという外交的思考も特筆すべきです。アメリカ主導のTPPへの参加に関心を示さず、途上国間の枠組みの方を追求しようとする姿勢は、インド中国に挟まれ、東西文明の交わる十字路という地理的要素の中で長年培われてきた資質であり、インドネシアらしいソフトパワーを体現していると著者は指摘しています。

 本書で著者が述べている中で興味深いのは「フルセット主義Ver2.0」という捉え方です。2011年5月、ユドヨノ大統領は『インドネシア経済開発加速・拡大マスタープラン2011〜2025年』を発表しました。これは6%成長に甘んじるのではなく、年率7〜9%成長を加速させる計画です。その内容は、全国各島をインフラ網で連結し、各地の特性に合わせて選ばれた22の業種を振興するというもので、全ての産業分野と全ての国土空間を視野におさめた壮大な開発構想であり、かつてスハルト体制が推進したフルセット主義の拡張バージョンという意味で著者はこれを「フルセット主義Ver2.0」と呼ぶわけです。

 興味深いのは、このプランでは外国援助を最小限にとどめ、民間資本を導入していこうという内容になっているということです。このマスタープランでは、政府10%、国営企業18%、民間51%、官民連携(PPP)21%となっているとのこと。つまり、民間とPPPで全体の72%になるわけです。

 わかりにくいのは、インドネシアのリーディング産業は何か?という問いです。これまでのインドネシア経済の成長エンジンを辿ってみると、この辺はさらにわかりにくくなります。70年代から90年代初めまでインドネシアの輸出は7〜8割が原油で、工業製品の割合はわずか5%程度でした。それが、2000年には工業製品の輸出シェアが59%にまで拡大します。こうして一見、インドネシアは新興工業国型の輸出構造に転換したかに見えたわけです、2000年以降、工業製品のシェアは縮小に転じ、2010年には41%にまで下がっています。代わってシェアが伸びているのは、石炭とパーム油です。他の成長国ではあまり見られない不思議な現象です。
 インドネシアと中国との間の貿易を見てみると、中国向け輸出に占める工業製品のシェアは、90年に62%だったが2010年には20%にまで下がり、原材料・鉱物性燃料・植物油が78%を占めるに至っています。代わって中国からの輸入に占める工業製品のシェアは90年の62%から2010年には89%にまで拡大しています。ASEANとの関係について見ると、輸出・輸入ともに90年代から2010年までそれほど大きな変化はなく、資源や工業製品とがバランスしている状況です。つまり、中国とは資源と工業製品の非対称貿易、ASEAN域内では対象貿易という二面性をインドネシアは持っているのです。

 外国投資について見ると、投資全体の76%が外国投資となっています。特徴的なのは、国内投資と外国投資の間に相互補完的な役割分担ができていることです。つまり、外国投資は通信、鉱業、化学、金属、機械といった重工業に投資を振り向けているのに対し、国内資本は農林業や一次産品をベースにした産業に投資されているということです。インドネシアの企業グループについて見ても、上位に来る企業グループから重工業の割合が減少しています。こうした棲み分けもインドネシアの産業構造を特徴づけています。

 こうして見てくると、インドネシアの成長エンジンがどの産業であるのかがよく分からなくなってきます。しかし、それが逆にインドネシアの特徴でもあるわけです。

 著者はインドネシアは人口ボーナス期における成長の理論モデルの想定とはかなり異なる成長パターンを見せていると指摘しています。つまり、通常、人口ボーナスの下では、労働投入量が増加し、貯蓄率が増えることにより投資が増加し、労働生産性が高まっていくといったサイクルを辿るのに対し、インドネシアでは初期段階からいきなり資本の増加が成長を牽引してきたというのです。この点もインドネシアの経済の本質を理解するのが難しい原因の一つであるような気がします。

 このほか、本書では、経済テクノクラートが政府の要職に就いているということや、財力なきエリートである国軍エリートと権力なきブルジョワジーである華人企業家との関係について触れられています。スハルト華人に対して経済上の自由を与え、これを利用するという関係にありました。近年になってようやく「プリブミ」と呼ばれる現地人の企業家が誕生したり、華人の中にも表舞台に出てくる者が出て来ているようです。

 このように、インドネシア社会を理解することはなかなか容易ではありません。これだけの人口規模が大きな成長を遂げることができているのかは正に奇跡的とも言えます。しかも、従来の理論モデルとは違った形で成長を遂げており、一旦工業化に向かったと思いきや、近年は再び鉱業や農林業のシェアが増加するなど、常識では考えられない経済です。

 にもかかわらず、日本とインドネシアの経済関係は近年ますます深まっていく方向にあります。そのためにはインドネシア社会をよく知る必要があるのですが、これは大変難しい問題です。以前味の素がインドネシアでバッシングを受けたことがありましたが、やはりイスラム文化がインドネシア社会でどのような形で横たわっているかを理解する必要があります。この辺りをもう少し切り込んだようなビジネス研究が求められているような気がします。

「麗しのサブリナ」★★★★

麗しのサブリナ [DVD]

麗しのサブリナ [DVD]

 オードリー・ヘップバーンの魅力全開の作品です。

 サブリナ(オードリー・ヘップバーン)は、大富豪の屋敷の運転手の娘で、大富豪の次男デイヴィッド(ウィリアム・ホールデン)に思いを寄せていたが、境遇の違いもあって、それは月に手を伸ばすようなものであった。そんな状況を心配した周囲は、サブリナをパリに料理の修業に行かせた。2年後に戻ってきたサブリナは全くの別人で、すっかりエレガントな女性へと変貌しており、デイヴィッドも最初サブリナとは気がつかなかった。

 デイヴィッドはすっかりサブリナにメロメロとなり、兄のライナス(ハンフリー・ボガート)によって無理矢理婚約させられているエリザベスをそっちのけとなってしまった。ところがデイヴィッドが怪我をしている間にサブリナの相手をしたのがライナスだった。ライナスがサブリナの相手をしているうちに、サブリナはライナスに惚れていく。

 そんな状況の中、ライナスはサブリナをパリに送り出すことを企て、2人分の船の予約をしておきながら、サブリナだけを船に乗せて自分は乗船しないつもりだった。しかし、サブリナの心の変化を悟ったデイヴィッドは、ライナスにサブリナと一緒に船に乗ってパリに向かうよう説得。ライナスはデイヴィッドによって用意されたタグボートに乗り船に向かい、一緒にパリに向かったのだった。。。

 この映画の最大の魅力はヘップバーンの魅力です。そして、ロマンチックな音楽もヘップバーンの華やかさに花を添えています。パリに行く前と行った後のヘップバーンの変貌ぶりには思わずため息が出てしまいます。他方、ストーリー的にはいまいちな感が否めませんが、それを補って余りあるほどヘップバーンが魅力的過ぎます。

 デイヴィッドに思いを寄せていたサブリナは、最初は、月に手を伸ばすようなものだと揶揄されていたのが、パリから帰ってくると、サブリナは余裕綽々に次のように言い返します。

「違うわ 月が私に手を伸ばしているのよ」

この台詞は大変痛快です。

 パリで料理を学びながら心ここにあらずといったサブリナに対して、老男爵がかけた言葉も印象的です。

「恋する女性はスフレを焦がす。悲恋の場合はオーブンをつけ忘れる。」

 いずれにせよ、見ているだけで夢うつつで幸せな気持ちになれる作品です。

領土を巡る争いに対処する知恵

 日本が尖閣諸島を国有化したことに対する中国の反発が連日大きく報道されています。これまでもしばしば反日デモが起こりましたが、今般のデモによる破壊や略奪はかなりエスカレートした感があります。

 まず抑えておかなければならないことは、領土を巡る争いというのは得てして話し合いで解決できない問題だということです。日本人は尖閣諸島竹島が日本の領土であることは自明だと考えているわけですが、相手側の国民は、それらは自分の領土だと思って信じて疑っていないわけです。これはいくら議論したとしても、決してお互いが納得できるような結論に達するわけがなく、話し合いによる解決を期待することはおそらくナンセンスでしょう。武力による解決がもっと愚かであることは言うまでもありません。

 領土を巡る争いは少しでも譲歩すれば、直ちに政権崩壊にもつながりかねないインパクトを持っています。とりわけ、中国のように選挙をせずに一党独裁を行っている国にとっては、致命的な問題になりかねません。つまり、領土問題は内政問題と密接にリンクしているわけです。加藤嘉一氏は「「いま起きていること」の90%は内政問題である」という言い方をしていますが、この言葉にすべてのエッセンスが凝縮されています。
http://diamond.jp/articles/-/25191

 したがって、国家は領土を巡る争いについては、一歩たりとも譲歩することができないわけです。今更中国や韓国が進んで、尖閣諸島竹島はやっぱり日本の領土でしたなどと言うことは全く期待できないと言ってもよいでしょう。ですから、中国や韓国に自らの非を認めさせようとする試みは、極めて致命的な事態、すなわち武力衝突を招きかねないということはよく理解しておく必要があります。

 特に中国の共産党政権の正統性というのは、極めて危うい基盤の上に成り立っているということを良く理解しておくべきでしょう。かつての共産党指導者たちは、実際に抗日戦線に参加し、自ら日本を中国本土から追い出したという揺るぎない「勲章」を具備していたわけですが、今の指導部世代はそのような「勲章」は持っていません。なぜ彼らが指導する共産党が選挙というプロセスを経ずして政権の座にいるのか?これは多くの中国人たちが潜在的に抱いている疑問であり不満です。だから、共産党政権が領土を巡る争い、しかも日本との間の争いで一歩たりとも引けないことは中国の内政を眺めれば一目瞭然なのです。
 日本でも同様に、領土に関して一歩たりとも譲歩できないことは言うまでもありません。
 したがって、表向きの外交上はお互い領土を巡る争いは建前論を唱え続けるしかないわけです。

 それでは、日本は領土を巡る争いにどのようなスタンスで向き合えば良いのでしょうか?

 今や企業活動のグローバル化が飛躍的に深化し、アジアワイドの分業体制が構築されている中、経済面だけ見ても日中関係、日韓関係は後戻りすることはできない状況になっています。日本で製造された部品が中国や韓国に運ばれ、それが中国製あるいは韓国製の家電製品として世界に向けて販売されているという現状があるわけです。ですから、政治問題と経済関係を切り離して処理する知恵が必要となってきます。

 そして、もう一つ強調しておかなければならないことは、こういう状況においてこそ、文化交流の窓口を閉ざしてはならないということです。日本のアニメや漫画も中国の若い世代に浸透しており、逆に韓国のK-POPや韓流ドラマは日本の社会に浸透しています。こういう草の根の文化交流は絶やすべきではありません。

 文化交流の重要性については、村上春樹氏が9月28日の朝日新聞に寄稿された文章が大変良くまとめています。

「文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。」

 文化交流の重要性ここまで端的に表現した文章はお目にかかったことがありません。こういう人びとの魂に訴えかける文章を書けるのは、さすが超一流の作家です。

 領土という大変難しいテーマについて、村上春樹氏は大変うまく切り込んでおり、非常に客観的にまとめていると思います。領土を巡る争いが国民感情に踏み込んでくる状況を「安酒の酔い」と表現したことに私は大変共感します。些細な領土紛争がいかに致命的な戦争を招いたかを学ばずして、歴史を学んだとは言えないはずですが、こういう状況の中で多くの人びとは第二次世界大戦勃発の経緯を振り返ろうとしません。これはもちろん日本人だけでなく中国人、韓国人にも等しく当てはまる事実です。

 日中、日韓関係はここに至るまでだいぶ洗練されてきたと思っていましたが、今回、領土を巡る争いが経済や文化の領域にまでいともたやすく入り込んできた状況を目の辺りにすると、両国の関係はまだまだ洗練したフェーズにはほど遠いことを痛感せざるを得ません。こういう状況だからこそ、日本人は冷静に対処することが必要だと思うわけです。

 今、尖閣諸島を巡って日中両国の船舶がにらみ合っている状況は、明らかに異常な状況と認識すべきです。国際紛争というのは得てして些細な状況から生まれていることは良く理解すべきです。誰も戦争を起こしたいなどと考えている人はいないとしても、一旦戦火が開かれてしまえば、当事者は引くに引けない状況に追い込まれ、それが悲劇を生んできたことは歴史が如実に物語っています。

 日本は領土に関しては従来の主張を繰り返していく以外に取るべき道はありません。すなわち、譲歩するという選択はとり得ないわけです。だからこそ、それが国際紛争につながらないようにすることに気を配らなければなりません。

 そう考えると、今回の尖閣諸島を都が買い上げることを打ち出すということが本当に必要だったのかは、我々はよく考えなくてはなりません。竹島に関しては、韓国が実効支配しているという現実に鑑みれば、日本は竹島問題を国際社会に大いにPRしていくメリットがあります。他方、尖閣について見ると、尖閣諸島を日本は実効支配してきており、外国人が領海内に入った際も、日本の警察権で対応してきたわけです。米国も尖閣諸島日米安保の対象内だというスタンスを取ってきたわけで、いざ中国からの武力攻撃があれば米軍も対処することは十分担保されてきました。今回の一連の騒動はそうした状況の維持にとって果たしてプラスに働いたのか?むしろ尖閣諸島を巡る争いがあることを中国が国際的にアピールすることになってしまったのではないか?こうした点は今後よく検証していくことが必要だと思います。

 領土を巡る争いは、テーブルの上では建前の応酬をしつつも、テーブルの下では冷静に握手しあうくらいのしたたかな外交が必要です。韓国にも中国にも日本は言うべきことは言い続けていかなくてはなりませんが、それによって保守派の熱狂を煽るような形に持っていけばいくほど、政治的にますますエスカレートするリスクは高まっていきます。

 最後に村上春樹氏の言葉を引用しておきます。

「安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。」