映画、書評、ジャズなど

「ワン・フロム・ザ・ハート」★★★

 

ワン・フロム・ザ・ハート [DVD]

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 コッポラ監督の作品ということで見てみました。ラスベガスを舞台にした80年代の恋愛映画です。

 

小さな旅行会社に勤めるフラニーは、恋人のハンクと5年間同棲していたが、互いの浮気を巡って喧嘩となり、フラニーは家を飛び出す。

ラニーは、旅行会社のショーウィンドウで作業していたところ、ピアニストのレイから声をかけられ、2人は恋に落ちる。

一方、ハンクもサーカス一座のライラという娘に声をかけ、2人は車で砂漠に出かけ、ロマンスに落ちる。

しかし、ハンクはフラニーのことが気になり、フラニーとレイが寝ているホテルに押しかけ、フラニーを連れ去る。しかし、フラニーのレイへの心は変わらず、2人はボラボラ島に向かう飛行機に乗り込む。ハンクは、搭乗直前までフラニーに戻ってくるように説得したが断念。失意の中、家に帰ると、やがてフラニーも戻って来たのだった。。。

 

コッポラ監督にしては、平板な恋愛作品で、しかも、最後になぜフラニーが戻って来たのかも、あまり説得力もなく、違和感が残る面が否めません。

 

作品中、ずっと音楽が流れているのですが、その歌詞と作品内容もそれほどマッチしているわけでもなく、演出としてはあまり効果的でなかったように思います。

 

ちょっと残念な作品でした。

「カーライル ニューヨークが恋したホテル」★★★★☆

 

thecarlyle-movie.com

カーライルホテルを巡る様々なエピソードを集めたドキュメンタリー映画です。従業員たちがまるで家族のように温かくゲストをもてなす姿勢が、とてもほのぼのした空気を醸し出しており、心温まります。

ホテルの従業員たちから評判がいいゲストは、ジャック・ニコルソンジョージ・クルーニーです。2人とも、従業員たちに気さくな態度で接していたようで、人柄の良さが画面を通じて伝わってきます。ジョージ・クルーニーは、この映画の中でかなり長時間のインタビューにも応じており、家族ぐるみでカーライルホテルを愛していることを告白しています。

この作品は、あまり知られていないセレブにまつわる多くのエピソードが登場します。例えば、ポール・ニューマンがホテルのレストランでドレッシングを自分で調合し、それを商品化したという話。ホテルの従業員が、ドレッシングの商品化に関与できたことを誇らしげに話しているのが印象的です。

また、エレベーターで、ダイアナ妃とマイケル・ジャクソンスティーブ・ジョブズが一緒に乗ったという話。エレベーターの中は沈黙が続く、、、ダイアナ妃が♪Beat Itを口ずさむまでは、、、という話は、その情景が目に浮かぶようです。

長年エレベーターのスタッフを務める男性が、20秒間の会話ならおまかせください、と誇らしげに話す姿が、とても印象的です。個々のスタッフが誇りを持って仕事をしていることが、カーライルホテル全体の信頼性や質の高いおもてなしにつながっていることを感じます。

このほか、レニー・クラヴィッツもインタビューに応じ、幼い頃から両親に連れられて、カーライルホテルの演奏を聴きに来ていたことを告白しています。

カーライルホテルの演奏といえば、ピアノの弾き語りを長年務めてきたボビー・ショートです。この作品でもボビー・ショートは何度も登場しますが、彼が長年にわたっていかに多くの人々を魅了してきたかが伝わってきます。


Bobby Short Performs at The Carlyle

その他、ソフィア・コッポラトミー・リー・ジョーンズナオミ・キャンベルなどなど、そうそうたる顔ぶれのセレブ達がインタビューに応じ、カーライルホテルへの愛を語っています。


『カーライル ニューヨークが恋したホテル』予告編

 

挙句にはケネディ大統領とマリリン・モンローが秘密の通路を使って密会していたという真偽不明な話まで登場します。

 

とにかく、きらきらと輝くような珠玉のエピソードが次々と披露され、ホテルのスタッフとゲストのセレブ達の相思相愛の関係がとても美しいです。

 

コンシェルジュのドワイトは、吃音に悩ませられながらも、多くのゲストたちの信頼を得てきました。しかし、そのドワイトがカーライルホテルを去ることになります。しかし、多くの若いスタッフたちは、ホテルマンとしての誇りに満ち溢れており、ドワイトのおもてなしの心がしっかりとカーライルホテルに受け継がれていることを感じます。

 

バックの音楽も素晴らしく、映画の雰囲気をうまく作り上げていました。中でも、US Navy Bandの♪Begin The Beguineは何度も作中に流れていてとても印象的でした。

www.youtube.com

 

とても素晴らしい映画でした。

伊集院丈「雲を掴め」「雲の果てに」

 

雲を掴め―富士通・IBM秘密交渉

雲を掴め―富士通・IBM秘密交渉

 

 

雲の果てに―秘録 富士通・IBM訴訟

雲の果てに―秘録 富士通・IBM訴訟

 

 

2007年、2008年に刊行された小説です。この2つの書の著者は、かつて富士通で、IBMとの互換機を巡る係争の責任者を務めた方で、前者が富士通とIBMが秘密契約を締結するまでを描いており、後者はその後に起こる仲裁を描いています。フィクションという形をとっていますが、実際に起こったことをベースに書かれていると言われており、実に緊迫感に溢れた作品であるとともに、当時の日本企業の戦略とその限界が垣間見える点が興味深いところです。

 

本書が描く交渉は、当時主流だった大型汎用コンピュータを巡るものですが、当時の状況については、松崎稔氏及び國領二郎氏の解説に詳しくまとめられています。IBMは1964年に汎用コンピュータS/360を発表しますが、その後に追加されるモデルも「360アークテクチャ」に基づくものとすることで、ユーザーは古いモデルの上で開発したプログラムを新しいモデルでも使い続けることができるというものです。国産メーカーは、こぞってIBMのOSを解読し、富士通も日立と組むことで、IBM互換アーキテクチャのMシリーズを開発します。

 

そして、富士通がIBM互換ハード・OSのヨーロッパ向け輸出を始めたことで、大きな危機感を抱いたIBMは、富士通知財侵害に基づく交渉を持ち掛けます。一旦は和解契約書を始めとする秘密契約が締結されますが、その後、IBMは米国仲裁協会に仲裁の申立てを行います。米国仲裁協会は結局1988年に最終裁定を出し、富士通はIBMに対し、一定のライセンス料(約1千億円)を支払うことになりますが、これは富士通が予想した額よりは少ないものでした。しかも、富士通に将来の互換の道を与えるものでした。

しかし、せっかく紛争が解決したというこの時期、汎用コンピュータの時代も峠を越えようとしており、1990年代に入ると、マイクロソフトはOSさえもハードウェアを問わず利用可能とし、IBM互換機の意味は薄れていくことになります。こうした状況の中、IBMとの交渉の最前線で奮闘してきた著者も、富士通から戦力外通告されるというのが、何とも切ないです。

 

さて、このような状況を小説として赤裸々に描いた伊集院氏の作品ですが、いろんなことを考えさせられます。高度成長期の中、国産メーカーは技術力を磨いて、必死に海外メーカーにキャッチアップしてきたわけですが、その中心の一つであるエレクトロニクス分野の企業がやってきたことは、結局、独自のマーケットを切り開くというよりも、既にIBMが切り開いたマーケットの顧客を、いかに自分たちの方へ引っ張るかという努力だったわけです。そのためには、IBMのコンピュータ上で作成されたプログラムが動くようなコンピュータの開発が必須であったわけです。

 

他方、本書のテーマの柱の一つである知的財産の観点で考えてみると、一筋縄にはいきません。当時、こうしたOSプログラムをいかなる権利として保護すべきかは、日本でははっきりしていませんでした。著作権法で保護すべきという米国に対し、日本独自のプログラム権法を制定する動きもある中、結果的には著作権法で保護されることになります。また、IBMも当初はこうしたOSプログラムをパブリックドメインとする戦略をとっており、必ずしも権利として保護しようという意志を持っていたわけではありません。だから、仲裁においても、著作権論議は避けられ、いかなる権利に基づくものかは曖昧にされています。

 

ただ、いずれにしても、結局、知的財産を生み出し、守ろうとする海外メーカーに対して、知的財産を利用したい国産メーカーという構図なわけで、日本企業は知的財産を生み出し、守るという発想にはないわけです。この点に、日本企業の限界があるように思います。

 

本書を読んでいて、富士通側の奮闘にどこか共感できず、釈然としない点が残ることになったのも、きっとこの辺の事情が関係しているように思います。

李 智慧「チャイナ・イノベーション データを制する者は世界を制する」

 

本書を読むと、もはや中国は先端分野のイノベーションで日本の先を行っていることを痛感せざるを得ません。本書では、そんな中国の数々のキラリと光るイノベーション企業が取り上げられています。

 

中国は政府を挙げてイノベーションの促進に力を入れています。例えば、大手インターネット企業や通信企業に呼びかけて、中小零細企業ベンチャー企業にプラットフォームへの接続、データ、計算能力等の資源を開放させるといったことを政府が中心に進めているとのことです。それから、海外からの帰国組の起業の後押しを政府が支援しているとのこと。北京には中関村サイエンスパークには、海外からの優秀な若手専門家が集められ、多くのユニコーンが誕生しています。

それからなんといっても中国の政策の最大の目玉は、ビッグデータ戦略でしょう。国家が市町村レベルからデータを収集し、国レベルの戦略的なデータベースを構築したり、それを中央・地方政府、市町村で共有できるようにするなど、政府の保有するデータの活用に積極的です。

そして、データ活用に向けた人工知能(AI)の推進に力を入れます。国務院は人工知能の分野に中国の有力企業を分担させて、その振興に力を入れています。

 

中国のイノベーションの起点になっているのは、モバイル決済です。スマホの普及とQRコードの活用が背景にありました。モバイル決済が爆発的に広がった結果、膨大なデータが蓄積され、その活用で様々なシェアリング・サービスなどのイノベーションが生まれるという循環が生まれているわけです。

さらには、芝麻信用のような個人の信用の点数化まで行われてしまうわけですが、個人情報を重視する欧米ではとても考えられないことです。本書によれば、中国では、便利だから良いという利便性を優先する考え方が主流なのだそうです。

 

本書では、アリババとテンセントについて詳しく触れられています。

アリババはかつて中国のEC市場で米国のeBayとシェアを争っていましたが、アリババが決済サービスのアリペイを導入すると、アリババはeBayに圧勝することになります。本書によれば、勝因は決済サービスだったとのこと。eBayはクレジット決済かネットバンキング決済をベースにした前払い方式を採用していたものの、信用情報が未整備な中国では広まらず、アリペイは買い手が代金をアリペイの口座に預け、送付された商品を確認して問題がなければ、アリペイに支払の指示を出し、初めて代金が売り手に支払われるという仕組みを導入しました。また手数料も無料化したり、損失を被った場合に全額補償するキャンペーンを展開するなどにより、中国市場のシェアを拡大していき、eBayは中国市場から撤退することになります。

さらにアリババは、個人資産運用サービスの「余額宝」(ユエバオ)を導入します。これは、アリペイ口座に滞留している資金を余額宝の口座に移せば、MMFで運用してくれるというサービスで、今では大手銀行の残高を超えているのだそうです。

 

 対するテンセントは、今では中国最大のSNSとなっていますが、もともとはインスタントメッセンジャーサービスでした。テンセントの戦略は、ウィーチャットの公式アカウントを解放した点にありました。これを企業が活用することで、チャット等の機能を通じて、テンセントの膨大な会員にアクセスすることができたため、多くの企業がこぞってテンセントの公式アカウントを開設するようになったとのこと。そして、ウィーチャットの決済インフラであるウィーチャットペイは、お年玉を配るイベントの開催により、多くの利用者を引き込みました。

アリババとテンセントの戦略の違いについて、本書は次のように述べています。

「テンセントが自ら事業を展開することをやめ、プラットフォームの提供に特化し、ある意味でパートナーに任せるといった「緩やかな結合」戦略を取ったのと対照的に、アリババは自ら事業を立ち上げる、もしくは企業との戦略提携を通じて自社のビジネスや決済機能との結合をより緊密にし、従来の業界を変革へと導き、次世代流通業や製造業、金融業を作り出そうとしていることに特徴がある。」(p160)

 

 このほかにも、この二強に追随する多くの企業が紹介されていますが、いずれの企業一つを取ってみても、日本には類を見ないベンチャー企業です。日本がいかにベンチャー企業の育成に失敗しているかを痛感せざるを得ません。

 

こうした中国企業の躍進を見るにつけ、イノベーションは大企業から生まれるのではなく、ベンチャー企業から生まれるのだと感じます。日本は、上位企業の顔ぶれは何十年も様変わりしていませんが、対する米国や中国では、数十年前のトップ企業で未だに上位に位置するような企業はほとんど皆無です。ここにイノベーションの差が生じてしまっているように思います。

 

この本を読むと、中国が日本に追いつけていないなどという幻想はあっという間に吹き飛びます。

 

 

 

 

 

山下範久編著「教養としての世界史の学び方」

 

教養としての 世界史の学び方

教養としての 世界史の学び方

 

 タイトルからすると、世界史を手っ取り早く総攬する本であるかのように思えますが、実際は、西洋中心の世界史に根本から疑問を投げかけるという純学問的な本です。つまり、世界史を徹底的に相対化しようとする試みといえます。

 

本書では、最初の近代、中世、古代という時代区分について論じた部分が興味深かったです。

近代初期においては、新しい時代を表現するために、直近の過去の向こう側にあったさらに古い過去の中に、直近の過去を乗り越えるために甦る要素を見出そうとした、という指摘はなるほどを感じました。こうした発想から、近代、中世、古代という3区分が生まれてくるわけです。

これはいわば近代を基準とする歴史観ということですが、著者はそこから3つのバイアスが生じたと指摘します。

第一は、近代の目的視、つまり最終的に近代というゴールにたどり着く過程を描く傾向です。これは、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり?」を想起させます。

第二に、歴史の主体的単位としてのネイション、すなわち歴史は近代化の主体としてのネイションを単位として書かれるということで、結果として、ネイションの境界をまたぐように存在する集団や交通関係に対する関心は薄れることになります。

第三に、ヨーロッパ中心主義です。 著者は以下のように指摘します。

「近代を基準とする歴史観は、ヨーロッパの歴史から抽出されたモデルを物差しとして、その他の社会の歴史を古代、中世、近代の三分法からなる一元的な尺度に位置付けようとする枠組みに帰着します。」(p44)

 

本書では、このほか、「市場」「市民社会」「国家」などの独自の切り口から歴史を描こうとするなど、意欲的な姿勢が随所に見られ、大変読みがいのある本でした。

 

 

 

 

 

 

「恋におちて」★★★☆

 

恋におちて [DVD]

恋におちて [DVD]

 

 1984年の米国の作品です。今観ると、あまりの甘い雰囲気に引いてしまいますが、当時の空気感はこんな感じだったように思います。

 

建築技師のフランク(ロバート・デ・ニーロ)とモリーメリル・ストリープ)は、本屋でクリスマスのプレゼントを買う際、ぶつかってしまい、買った本が入れ替わってしまう。その後、2人は同じ列車に乗り合わせて再会。その後、次第に恋が芽生えていく。しかし、2人は既婚者であった。

 

モリーは父親の看病で病院に通っており、フランクは病室に電話して、デートの約束を取り付けていた。やがて、モリーの父親は亡くなる。

フランクは会社から転勤の打診をされたが、モリーとの関係もあり、当初は断る。

2人は激しく恋に落ちたものの、あくまでプラトニックな関係のままであった。しかし、やがて互いの配偶者に気付かれ始める。

フランクは転勤を受け入れることを決める。引っ越し前に最後にモリーに会いたいと電話する。モリーは夫の制止を振り切り車を走らせるが、途中で車が故障して、結局会えないまま、フランクは引っ越してしまう。

その後、フランクはクリスマスの休暇でNYに戻り、2人が出会った本屋に立ち寄ったところ、モリーと再会する。2人は簡単に言葉を交わして、そのまま別れたが、再び同じ列車に乗り込み、愛を確かめ合ったのだった。。。

 


Falling In Love - Trailer

 

テーマが不倫であり、しかも甘いメロドラマであり、今ではとても受け入れられそうにない作品ではあります。

 

ただ、2人が恋に落ちていく過程はそれなりに説得力があり、愛が深まるにつれて家族関係がぎくしゃくしていく過程も、それなりに説得的に描かれています。

 

この作品では、メリル・ストリープの魅力が光っています。30代半ばですが、熟女の魅力が全開で、改めて素晴らしい女優さんであることを認識しました。

 

そして、デイヴ・グルーシンの♪Mountain Danceも作品の雰囲気を形作っています。


Dave Grusin - Mountain Dance

 

決して深みを感じる作品ではありませんが、まぁ純粋に楽しめる恋愛映画という感じでした。

山口栄一「イノベーションはなぜ途絶えたか」

 

 日本のイノベーションの力が衰えていることは、もはや否定しようもないでしょう。米国や中国の企業が全世界のプラットフォーマーとして勢いづいているのに比べると、日本企業の苦戦は目を覆いたくなるほどです。

では、なぜ日本のイノベーションの力はここまで凋落してしまったのか。この点について、一つの解を示そうするのが本書です。

 

本書が指摘するところを端的にまとめると、次のようになります。

かつての日本では、大企業の中央研究所に優秀な技術者が集まり、そこでイノベーションが生まれていました。しかしながら、米国の大企業の中央研究所が撤退する中、日本でも中央研究所が次々と縮小されていきます。米国ではエレクトロニクス産業に限った動きだったにもかかわらず、このとき日本では、エレクトロニクス産業だけでなく、医薬品の分野でも、中央研究所から撤退しまします。

しかも、米国では、大企業に代わって、ベンチャー企業からイノベーションが生まれるという洞察に基づき、SBIRの仕組みを整備します。この仕組みは、目利きとなる科学行政官が、3段階の選抜を経たベンチャー企業に「賞金」を与え、民間のベンチャー・キャピタルにつなぎ、政府調達でも優先するというものです。

日本でも、このSBIRをまねた仕組みが整備されますが、著者によれば、米国の仕組みの思想を理解しないもので、実態は全く異なるものであったとのこと。米国における支援対象は博士号取得者が大きな割合を占めているのに対し、日本でその割合はわずかであり、単なる中小企業支援に過ぎないものとなってしまいました。また、支援対象の技術分野も、米国は「コア学問」であるのに対し、日本ではそうではないということ。

このように、大企業の中央研究所に代わるイノベーション・エコシステムの構築に成功した米国と日本の違いが、今のイノベーションの現状の差に表れているというわけです。

こうした著者の説明には、かなりの説得力があるように思います。日本のベンチャー支援自体は以前から謳われてきましたが、それでも政策の軸足は経団連加盟企業を始めとする大企業に一貫して置かれていたように思います。

それに対し、米国では、政策の軸足をうまくベンチャー支援に移していくことに成功してきたわけです。

 

 こうした状況にもかかわらず、残念ながら、日本の政府や大企業がその深刻さを認識しているようには見えません。特に財界人は、相変わらず中国の脅威をきちんと認めようとしません。

そんな中で、以前朝日新聞に掲載された経済同友会代表幹事(当時)の小林喜光氏のインタビュー記事は「敗北日本」を正面から認めるもので、読みごたえがあります。


日本の政府の施策も、この際、遅ればせながら、大企業からベンチャーに大胆にシフトすべきではないかという気がします。