映画、書評、ジャズなど

山口栄一「イノベーションはなぜ途絶えたか」

 

 日本のイノベーションの力が衰えていることは、もはや否定しようもないでしょう。米国や中国の企業が全世界のプラットフォーマーとして勢いづいているのに比べると、日本企業の苦戦は目を覆いたくなるほどです。

では、なぜ日本のイノベーションの力はここまで凋落してしまったのか。この点について、一つの解を示そうするのが本書です。

 

本書が指摘するところを端的にまとめると、次のようになります。

かつての日本では、大企業の中央研究所に優秀な技術者が集まり、そこでイノベーションが生まれていました。しかしながら、米国の大企業の中央研究所が撤退する中、日本でも中央研究所が次々と縮小されていきます。米国ではエレクトロニクス産業に限った動きだったにもかかわらず、このとき日本では、エレクトロニクス産業だけでなく、医薬品の分野でも、中央研究所から撤退しまします。

しかも、米国では、大企業に代わって、ベンチャー企業からイノベーションが生まれるという洞察に基づき、SBIRの仕組みを整備します。この仕組みは、目利きとなる科学行政官が、3段階の選抜を経たベンチャー企業に「賞金」を与え、民間のベンチャー・キャピタルにつなぎ、政府調達でも優先するというものです。

日本でも、このSBIRをまねた仕組みが整備されますが、著者によれば、米国の仕組みの思想を理解しないもので、実態は全く異なるものであったとのこと。米国における支援対象は博士号取得者が大きな割合を占めているのに対し、日本でその割合はわずかであり、単なる中小企業支援に過ぎないものとなってしまいました。また、支援対象の技術分野も、米国は「コア学問」であるのに対し、日本ではそうではないということ。

このように、大企業の中央研究所に代わるイノベーション・エコシステムの構築に成功した米国と日本の違いが、今のイノベーションの現状の差に表れているというわけです。

こうした著者の説明には、かなりの説得力があるように思います。日本のベンチャー支援自体は以前から謳われてきましたが、それでも政策の軸足は経団連加盟企業を始めとする大企業に一貫して置かれていたように思います。

それに対し、米国では、政策の軸足をうまくベンチャー支援に移していくことに成功してきたわけです。

 

 こうした状況にもかかわらず、残念ながら、日本の政府や大企業がその深刻さを認識しているようには見えません。特に財界人は、相変わらず中国の脅威をきちんと認めようとしません。

そんな中で、以前朝日新聞に掲載された経済同友会代表幹事(当時)の小林喜光氏のインタビュー記事は「敗北日本」を正面から認めるもので、読みごたえがあります。


日本の政府の施策も、この際、遅ればせながら、大企業からベンチャーに大胆にシフトすべきではないかという気がします。 

エラリー・クイーン「Yの悲劇」

 

Yの悲劇 (角川文庫 ク 19-2)

Yの悲劇 (角川文庫 ク 19-2)

 

 エラリー・クイーンの不朽の名作です。

 

『Xの悲劇』とはまた違った意味であっけにとられるエンディングです。

 

化学者のヨーク・ハッタ―が海で腐乱した状態で発見される。ヨークの妻エミリーは、強欲で裕福な女で、ヨークはエミリーの尻に敷かれて生きていた。

ヨークとエミリーの間には、2人の娘バーバラ、ジルと1人の息子コンラッドがいたが、エミリーは前夫との間に聾唖の娘ルイーザがいた。エミリーはルイーザを溺愛していたが、他の子供たちはルイーザを嫌悪していた。息子のコンラッドには2人のわんぱくな息子がいた。

 

このハッタ―一族が住む屋敷で事件が立て続けに起こる。まず、ルイーザがいつも決まった時間に口にするエッグノッグに毒が盛られていた。偶然ルイーザがそれを口にする前に、コンラッドの息子の1人ジャッキーがそれを口にし、嘔吐した。

続いて、エミリーが殺害された。エミリーはそのときルイーザと同じ部屋におり、エミリーはマンドリンで殴打されていた。ルイーザがいつも食べる梨には毒が盛られており、この犯行はもともとルイーザを狙ったものと見受けられた。

 

事件は混迷を深める。事件を担当するのは、『Xの悲劇』のロングストリートの事件の時と同様、地方検事のブルーノと警視のサムだった。2人は再び、ドルリー・レーンに相談する。レーンはご存知のとおり元大物舞台俳優で、今は引退して犯罪を研究し、警察から頼られる存在となっていた。

 

当初は、エミリーの相続に絡む恨みつらみが原因かとも思われた。また、ジャッキーらの家庭教師として雇われているエドガーが、実はルイーザと異母兄弟であることを隠してハッタ―家に入り込んでおり、警察はエドガーを逮捕するのだが、レーンはその線も否定する。

 

レーンは、生前のヨークが推理小説を書きかけていたことを知る。そして、その原稿を見つけた。そこに書かれていたのは、今ハッタ―家で起こっている事件そのものだった。しかも、その犯人は、ヨーク自身とされていたのだ。

 

レーンは、ハッタ―家で心臓発作で倒れたふりをして、しばらくハッタ―家に滞在して犯人を突き止めようとするが、結局、レーンはこの事件から手を引くことをサムらに伝える。ちょうどそのとき、ハッタ―家でもう一つの事件が起こる。ジャッキーが毒の盛られたミルクを飲んで命を落とした。

 

その後、しばらく経ってから、ブルーノとサムがレーンのもとを訪れる。レーンは実は事件の真相を知っていると思ったからだ。

レーンからは驚くべき真相が語られた。犯人は少年ジャッキーだというのだ。ジャッキーがヨークの残した草稿をもとに、それを忠実に実行しているというのだ。ただ、子供ならではのずさんさも随所に見られた。

レーンは、次のように述べる。

「今回の痛ましい事件は、まさに“Yの悲劇”とでも呼びうるでしょう。ヨーク・ハッタ―ー自称Y-が小説の構想として犯罪計画を立て、自分の孫の心にフランケンシュタインの怪物を作りあげました。その孫が計画を受け継いで実行に移し、Yが小説のなかでさえ意図しなかった凄惨な結果を招いたのです。少年が死んだとき、わたしは悲劇に驚愕する役柄を装って、本人の罪を暴きませんでした。暴いたところでだれの役に立つでしょうか。関係者全員にとって、少年の罪を公にしないのが得策だったのです。」

 

 

何とも衝撃的な結末でした。読者がせいぜい思いつく結末としては、実は聾唖のルイーザが犯人だとか、実はヨークは生きていた、といった程度ですが、まさか、子供が犯人なんて、正直私には思い浮かびませんでした。

 

 このシリーズは、やはりドルリー・レーンの人物的な魅力が光っています。事件の全容を悟ったにもかかわらず、それを警察にすぐには伝えず、ほとぼりが冷めるまでは心の中にしまっておくというレーンの配慮、このエンディングがなぜかさわやかな読後感を醸成します。

 

 やはり長年語り継がれてしかるべき名作だなぁ、とつくづく思いました。

 

「泥棒成金」★★★★☆

 

泥棒成金 [Blu-ray]

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 ヒッチコック監督の1955年の作品です。

かつて宝石泥棒「猫」として名をはせ、レジスタンスの英雄でもあったたジョン・ロビー(ケーリー・グラント)は、足を洗い、今では南仏リヴィエラの高台の屋敷に住んでいた。

ところが、ロビーの手口をまねた模倣犯が宝石泥棒を繰り返し、ロビーは警察に疑われることに。

ロビーは自分の潔白を証明するため、かつてのレジスタンスの仲間で今はレストランを経営するベルタニに紹介された保険会社の社員から、狙われそうな宝石所有者のリストを入手し、材木商バーンズになりすまして活動を開始する。

ロビーは、そんな宝石所有者のアメリカ人の母娘に近づく。娘のフランセス(グレイス・ケリー)は、バーンズがロビーであることを見抜き、2人は恋に落ちる。

しかし、ある日、フランセスの母親の宝石が盗まれ、フランセスはロビーを犯人として疑う。

そんな中、宝石所有者が集まる仮装パーティーが開催されることに。ロビーも仮装してフランシス母娘と一緒に潜入し、模倣犯の犯行現場を押さえようということに。

ロビーが屋根の上で張っていると案の定「猫」が現れる。

その正体は、かつてのレジスタンスの同士の娘だった。屋根から転落する寸前にその腕をつかんだロビーは、背後にいる人物を激白させた。それは、かつてのレジスタンスの同士のベルタニだった。。。

 

 

 ヒッチコック監督らしい独特の演出が随所に見られます。ホテルの部屋からケーリー・グラントグレイス・ケリーが2人で花火をバックに恋に落ちるシーンでは、2人のシーンと花火が飛び散るシーンが交互に組み合わされ、独特の雰囲気を醸し出しています。

 

とにかく、上空から撮影されたリヴィエラの街並みがとても美しいです。

グレイス・ケリーも大変美しく、仮装パーティーのシーンは、華やかなコスチュームが入り乱れる荘厳さです。

 

原題は“To Catch A Thief”ですが、邦題の「泥棒成金」はちょっといただけません。「成金」というのは、この作品の本質とは全く関係ないので、なぜこのような邦題が付いたのか、疑問です。

 

いずれにしても、画面から伝わる贅沢な雰囲気だけでも楽しめる作品です。

岡口基一「裁判官は劣化しているか」

 

裁判官は劣化しているのか

裁判官は劣化しているのか

 

著者はブリーフ姿をSNSに晒したりして、何かと話題を振りまかれている方ですが、裁判実務に関する論稿には定評があり、本書でも興味深い指摘をされています。

 

本書では、判決における「要件事実」の重要性が指摘され、その軽視が裁判の劣化につながっているという主張が主に展開されています。

 

著者によれば、民事裁判は請求権を中心に考えるべきと主張されます。請求権が認められれば、原告が勝訴、認められなければ、原告は敗訴することになります。

原告は請求権の発生要件に該当する具体的事実(=請求原因事実)を主張立証するのに対し、被告は請求権の消滅原因の主張、すなわち消滅の抗弁に向け、請求権の消滅要件に該当する事実(=抗弁事実)を主張立証します。

これが、民事訴訟の基本構造です。

 

裁判官は、主張書面を読んで、請求原因事実、抗弁事実等の主張の有無を確認し、判決書の前半部分である「当事者の主張」欄にことになります。この欄はさらに「請求原因」欄と「抗弁」欄に分かれます。

これらの、「当事者の主張」欄に記載された事実の総称が「要件事実」ということになります。

 

請求権の発生要件については、原告が主張立証責任を負い、請求権の消滅要件については、被告が主張立証責任を負うことになります。

 

判決における「当事者の主張」欄は、本来、「主張」に係るものでしたが、現場の裁判官らは、これを「立証(=証拠によって事実の存在を証明すること)」に係るツールとして利用しようとしたと著者は主張します。

つまり、証拠によって立証しようとする事実を前もって明らかにしておくという機能をも要件事実に持たせるようになったというわけです。

例えば「正当の事由」のような規範的要件については、請求権の発生要件であるから、本来原告が主張立証責任を負いそうなものですが、実際は原告被告がそれぞれに自己に有利な事実を主張立証するわけです。

この場合に被告が行う主張は「抗弁」ではありません。しかし、実務では、これを被告側の欄である「抗弁」に記載するようになったとのこと。つまり、法理論的には抗弁に当たらないものまで「抗弁」欄に記載されるようになったわけです。

 

 この扱いについて、司法研修所は、「正当の事由」という法律要件は、その評価根拠事実と評価障害事実に分割され、前者は原告が主張立証責任を負い、後者は被告が主張立証責任を負うと説明するようになったとのことです。しかし、一つの法律要件を二つに分割して、原告と被告がそれぞれ主張立証責任を負うという説明は、法理論的に奇妙であり、学者は相手にしなかったとのことです。著者もこの司法研修所の考え方を批判しています。

 

司法研修所では、かつては模擬記録を使って、判決書の「当事者の主張」欄を起案させることで要件事実の演習をさせていたそうです。

 

しかし、「当事者の主張」欄の作成は時間がかかるため、裁判所は新様式を用いるようになります。新様式では、「当事者の主張」欄はなくし、「争点に関する各当事者の主張」を記載することになります。この記載に当たっては、従来の事実摘示のルールに厳密に従うのではなく、裁判官が自らの表現方法で自由に記載しても良いことになったそうです。

 

これによって、判決の起案に要する時間は劇的に短くなった反面、従来判決のメリットは失われることになります。

こうして、裁判所は、長年の智の結集である「当事者の主張」欄をいとも簡単に捨て去るだけでなく、司法研修所の自慢の教育システムである「要件事実教育」までも廃止してしまうことになります。

 

こうした影響は、最高裁の判決の劣化にもつながっていると著者は主張します。その例として挙げられているのは平成30年6月1日「ハマキョウレックス事件」の最高裁判決です。ここでは、一つの法律要件を請求原因と抗弁に分解して、それぞれの当事者が主張立証責任を負うという司法研修所の理論を採用していますが、この理論は多くの学者や現場が否定的に捉えていたものです。学者はこの論点については、立証責任の問題は生じないと解していたにもかかわらず、最高裁がこの理論を迂闊に用いてしまい、主張立証責任の問題をあえて惹起してしまったというわけです。

 

以上、著者の指摘を私なりにまとめてみました。著者はこうした裁判官の劣化の一員に、近年の「飲みニケーション」の欠如を挙げています。裁判官の間でも「飲みニケーション」による教育システムがあったということ自体、一般人にとっては新鮮ですが、これはどこの職場でも同様なのかもしれません。

 

著者はかつて『要件事実マニュアル』をまとめたりして、この手法には格別の思い入れがあるのかもしれませんが、それを参酌したとしても、著者の主張は説得力があるように感じました。

 

裁判所というのは、我々が想像している以上に、強力な中央集権的な人事システムによって動いているのだということも、本書から感じました。それが裁判の歪みに少なからず影響を与えているように思います。

 

裁判所という未知の世界を知る上で大変有用な本でした。

スコット・ギャロウェイ「GAFA 四騎士が創り変えた世界」

 

the four GAFA 四騎士が創り変えた世界

the four GAFA 四騎士が創り変えた世界

 

GAFAとは、言わずと知れたGoogle, Apple, facebook, amazonの4大ビッグ企業ですが、本書はこれらの企業の内実を解き明かそうとするものです。

 

1.アマゾン

全米の52%にはアマゾン・プライムがあるほどですが、著者はアマゾンの隆盛の要因は、私たちの本能に訴える力と、シンプルで明確なストーリーだとします。

アマゾンが訴えかける私たちの本能とは、

「より多くのものをできるだけ楽に集めようとする我々の狩猟採集本能」

です。

そして、シンプルで明確なストーリーとは、

「ストーリー:世界最大の店

戦略:低コスト、より多くの選択肢、より迅速は配送。こうした消費者利益への巨額投資」

 

です。

興味深いのは、アマゾンが運輸業へ参入しているという指摘です。アマゾンは集めた年会費を使って物流インフラを構築しています。近いうちにアマゾンはアメリカと欧州における最大の輸送業者となると著者は予測します。

そして、著者は、アマゾンの音声テクノロジーのアレクサが、小売りとブランドの両方の地盤を揺るがす可能性があるとします。アレクサは自社のプライベート・ブランドであるアマゾンベーシックなものを勧めます。これにより、アマゾンは他のブランド品よりも、自社の製品の販売を推し進めようとしているわけです。

「ブランドを殺すものには名前がある。それはアレクサだ。」

と著者は述べています。

 

2.アップル

アップルのスマホ市場でのシェアは、台数ベースで14.5%に過ぎないにもかかわらず、全世界のスマホの利益の79%を独占しているとのこと。つまり、アップルは高級品業界をターゲットとして、高級ブランドによって利益を上げているわけです。

「テクノロジー企業から高級ブランドへ転換するというジョブズの決定は、ビジネス史上、とりわけ重要なーそして価値を創造したー見識だった。」

著者は、高級ブランドの5条件として、

  • アイコン的な創業者
  • 職人気質
  • 垂直統合
  • 世界展開
  • 高価格

を挙げています。

 アップルが依然としてアップルストアというリアルな店舗を重視しているのは、やや違和感がありますが、それは、アップルがこうした高級ブランドを維持するために不可欠なわけです。

「アップルの成功の決め手となったのは、iPhoneではなくアップルストアなのだ。」

と著者は述べています。

 

3.フェイスブック

今、地球上の6人に1人が毎日フェイスブックを見ているのだそうです。

著者は、

「規模とターゲティング能力を併せ持っているメディア企業は、フェイスブックだけだ。」

と指摘します。つまり、18億6千万人のユーザーが自分のページを作り、そこに個人的なコンテンツが収められていて、広告主が個人をターゲットにしたければ、フェイスブックがその人の行動に関連するデータを集めてくれるわけです。

著者は、フェイスブックは着実に昔のメディアを去勢していくだろうと述べています。例えば、ニューヨークタイムズは、フェイスブックからニューヨークタイムズのサイトに移動せずに記事を丸ごと読める仕組みとなっていますが、それによってニューヨークタイムズは広告収入を得られるものの、フェイスブックは、どのメディアのコンテンツを見せるかをコントロールできるという意味で、主導権を握っていることになります。

 

4.グーグル

著者はグーグルを現代の神と位置付けています。それは、人々のグーグルに対する絶大な信頼を指すものです。グーグルは私たちの極めてナイーブな質問を大量に知っているわけです。そして、グーグルの広告に影響を受けない検索(オーガニック検索)に対して、人々は絶大な信頼を置いています。そして、ホームページのシンプルなデザインは神聖さを象徴しています。広告主はどんなにお金を積んでも、グーグルのホームページの一角を買うことはできないわけです。

著者は、ニューヨークタイムズがグーグルに記事の掲載を許可していることに、強く異議を唱えています。

「『ニューヨーク・タイムズ』は近代ビジネス史上、最大級の間違いを犯したのだ。ぜいたく品のブランドを下水道に流すことで広めて、下水道の所有者には自分の店よりも安い値をつけることを許容したのだ。」

 

著者は、これらの四騎士が共有する「覇権の8遺伝子」を挙げています。

  1. 商品の差別化
  2. ビジョンへの投資
  3. 世界展開
  4. 好感度
  5. 垂直統合
  6. AI
  7. キャリアの箔づけになる
  8. 地の利

次のGAFA候補の企業にこの基準に照らした分析は興味深いものです。

 アリババは、米国での商業拠点の確立が課題であることに加え、ビジョンへの投資が不足し、投資家向けのストーリーテリングに苦労していると著者は指摘します。好感度にも課題があります。

テスラは、ビジョンの魅力は優れているものの、まだ世界展開をしておらず、個人行動のデータを有していない点が課題と指摘されています。

ウーバーは、ビジョンは優れており、相当なビッグデータを活用できるスキルがあるものの、垂直統合されていない点がネックです。ウーバーに勤めていたことがキャリアの箔づけになるとも思われていません。そして、CEOのキャラクターにより好感度が悪いことが最大のネックとなっています。

エアビーアンドビーは、世界展開には成功しているものの、垂直統合がなされていないのが弱みだと指摘します。

 

そして、本書の最後に、著者は四騎士の目的を率直に指摘します。

「彼らの目指すもの、それはつまるところ金儲けなのだ。」

「私たちはあれだけの大企業ならたくさんの雇用を生み出していると思ってしまうが、実は違う。そこにあるのは報酬が高い仕事が少しだけで、それにあぶれた人が残りの物をめぐって争っている。この調子だとアメリカは300万人の領主と3億人の農奴の国となる。」

これが本書を通じてもっとも著者が伝えたかったことのように思います。

 

 本書は、以上のような感じで、GAFAという存在の本質を鋭く抉り出している良書だと思います。著者は基本的には、GAFAに対して懐疑的な考えを抱いているように思いますが、かといって、GAFAの否定的な面ばかりを強調するのではなく、その成功の要因や課題を冷静かつ深く分析しています。

 

GAFAを見てつくづく感じるのは、日本のいわゆる大企業との差異です。GAFAの多くは比較的新しい顔ぶれであり、数年前まではベンチャー企業の一つに過ぎなかったのに対し、日本の大企業の顔ぶれは、何十年前からほとんど変わっていません。大きな組織が長年維持されるということは、それだけ組織は疲弊し、腐敗することにつながり、そこからイノベーションが起こるわけがありません。アメリカや近年の中国のイノベーションの状況を見ればわかるように、イノベーションの創出を支えるのは、ベンチャー企業なのだと思います。

 

GAFAが世界市場を席巻する状況を見るにつけ、日本の今の社会から果たしてGAFAのような企業が生まれる可能性が果たしてあるのだろうか、とつくづく考えてしまいます。

そういう意味で、大変考えさせられる本でした。 

ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」

 

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

1942年に出版されたウィリアム・アイリッシュの作品です。原題は〝Phantom Lady〟と、何ともスタイリッシュです。
80年近く経った今でも、ミステリー小説の最高傑作のひとつに数えられるくらい、完成度の高い作品です。
特に、ラストのどんでん返しは、他の追随を許さない衝撃を与えるほど、よくできています。
そして、死刑執行から逆算して〇日という形で物語が進行していくのも、とてもスリリングで、刻々と死が迫っていく迫力と緊張感を生み出しています。

その日スコット・ヘンダーソンは、不仲の妻マーセラと観劇に行くため、チケットを2枚とっていたが、土壇場になって妻が行かないと言い出したため、一人家を飛び出す。愛人のキャロルにも断られ、仕方なく寄ったバーでたまたま一人で居合わせた見知らぬ女性と劇を見に行くことになる。再び同じバーに戻った後、2人は分かれ、ヘンダーソンは家に帰るが、そこには妻マーセラの死体と警察がいた。

当然、ヘンダーソンは妻の殺人の嫌疑をかけられる。疑惑を晴らすためには、一緒に観劇に行った女を見つければよかったのだが、ヘンダーソンは女の名前も聞かず、さらに悪いことに、顔を全く思い出せなかった。その夜の2人の足跡をたどって聞き込みを進めても、誰も女がいたことすら思い出せないという。

ヘンダーソンはアリバイを証明できず、投獄され、死刑判決を受けることになる。

絶望に打ちひしがれる中、バージェス刑事のアドバイスもあって、ヘンダーソンはかつての親友ロンバートに助けを求める。ロンバートは南米に赴任していたが、ヘンダーソンのためにわざわざ帰国してくれ、そしてヘンダーソンの無実の証明に力を注ぐことになる。ヘンダーソンの愛人のキャロルも、それに協力する。

聞き込みを続けていくと、当日、その女を見かけた可能性がある人々は、誰かに口止めをされていることが分かる。そして、次々と不審の死を遂げていく。

ロンバートは、その女が当日の劇場のプログラムを持っている可能性が高いとみて、劇場のプログラムの買取を求む広告を掲載する。そこに当日のプログラムを持ってきた女が、当日ヘンダーソンンと共にいた女だというわけだ。ロンバートは、その女を車に乗せ、まさに死刑に処されようとしているヘンダーソンの無実を証言するように求めた。
しかし、ロンバートの車がたどり着いたのは森の中だった。ロンバートは、その女を殺害しようとする。その女は実はヘンダーソンの愛人のキャロルだった。その場に、バージェス刑事も駆けつけ、ロンバートは捕らえられる。

実は、ヘンダーソンを死刑から救うことができる女を殺そうとしたロンバートこそが、ヘンダーソンの妻マーセラを殺した真犯人だった。。。


このラストのどんでん返しは、確かに唖然とさせられます。誰しも、親友のロンバートヘンダーソンを死刑から救うために献身的に調査に当たっているのかと思いきや、実は、アリバイを証明できる女を殺害することが目的だったわけです。この展開は、さすがに予測できませんでした。しかも、とても説得力のある展開です。

この作品は、始まりのフレーズが有名です。
“The night was young, and so was he. But the night was sweet, and he was sour.”

「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。」

訳者によれば、このフレーズは、ある失恋の歌の一部をもじったものなのだそうです。

 

読み応えのある期待通りのミステリー作品でした。

フリーマントル「殺人にうってつけの日」

 

殺人にうってつけの日 (新潮文庫)

殺人にうってつけの日 (新潮文庫)

 

 仲間に裏切られて長年収監され、しかも自分の妻までも取られてしまった元スパイの壮絶な復讐劇を描いた作品です。

 

元CIA工作員のメイソンは、元KGBのスレイターに裏切られ、妻のアンも奪われてしまう。メイソンは15年間監獄での生活を送りながら、2人への復讐を誓う。

一方、スレイターはアンとの間に生まれた息子のデイヴィッドと3人で幸せな日々を送っていたが、メイソンが保釈されたという一報を受けてから、アンは、メイソンが殺しにくるのではないかという恐怖に怯える日々を送ることになる。

 

それが現実となり、息子のデイヴィッドは何者かによって轢き逃げされ、命を落とす。アンの経営する画廊の防犯カメラには、メイソンが映っていたことに気づき、アンは益々恐怖におののく。その話をスレイターにしたところ、アンの精神状態が不安定であるとしてなかなか取り合わず、2人の間には次第に亀裂が生じる。

 

メイソンは着々と2人の殺害計画を準備する。殺害場所はデイヴィッドが眠る墓地と決める。メイソンはアリバイ作りのために、カリフォルニアと東部を行き来する。

 

ついにメイソンは殺害を実行に移そうとしたそのとき、メイソンはFBIに囲まれていた。メイソンにとどめを刺したのはアンだった。隣にいたスレイターは身動きできず、そのことで2人はその後別の道を歩むことになる。。。

 

 

周到な準備を重ねてきたはずだったのが、最後の実行失敗がなんともあっけなく、唖然としてしまいます。

メイソンはあえなく命を落としましたが、生き残ったアンとスレイターも、子供を無くした上に、2人の心は離れてしまい、どちらにとってもハッピーエンドとは言えない結末になっています。

 

結局、裏切りによって、誰も幸せにはなれないということなのかもしれません。

 

淡々と進んでいく独特に筆致は、さすがフリーマントルの作品という感じでした。