映画、書評、ジャズなど

「ブルーに生まれついて」★★★★☆


Born to Be Blue [ ETHAN HAWKE, CARMEN EJOGO ] TRAILER

伝説のジャズ・トランぺッターのチェット・ベイカーを題材とした作品です。

チェット・ベイカーといえば、その甘いマスクとヴォーカルもあり、マイルス・デイヴィスらに並ぶ人気者に上り詰めながらも、生涯を通じてドラッグに溺れ、麻薬中毒と闘い続けたという壮絶で切ない人生を歩んだミュージシャンです。

作品中では、イーサン・ホークがチェットを演じており、実際にヴォーカルを披露しているわけですが、これがなかなか秀逸で、チェットの切ない雰囲気を非常によく再現しています。

冒頭、NYの名門ジャズクラブ「Birdland」にてチェットが演奏し、それを見ていたマイルスが「お前はまだ早い」と一蹴します。チェットはドラッグから足を洗ったということで、多くの人たちが再びチェットを支援していたものの、実はドラッグを捨て切れておらず、チェットはドラッグの代金を取り立てに来た密売人にこっぴどく殴られ、歯はボロボロになり、トランペットを吹けない体になってしまいます。

そんなチェットを献身的に支えたのは、チェットと映画で共演した女優の卵のジェーンです。ドラッグと闘うチェットのそばに寄り添うシェーンのおかげで、チェットは徐々にトランペットを吹けるようになっていきます。

やがて、チェットはディジー・ガレスピーの取り計らいで、NYの「Birdland」で再び演奏できることに。マイルスやシェーンらも見守る中での大舞台だったが、チェットは麻薬中毒を鎮める薬を切らしていた。ステージで演奏するために薬に手を出そうとするチェット。

結局、チェットは素晴らしい演奏を披露したのだった。ただ、薬の力を借りて。。。

 

 

この作品の中でひときわ存在感が際立つ演奏は、♪I've Never Been In Love Beforeでしょう。最初の方でチェットとシェーンがボーリングを楽しむ場面と、最後の大舞台での演奏の2回、この曲が登場します。


Chet Baker - Chet Baker Sings - 05 - I've Never Been In Love Before

チェットの名演といえば、♪My Funny Valentineが真っ先に思い浮かびますが、個人的には、この曲が最もチェットらしい切なさと脆さを醸し出していると思います。チェットが抱えている闇の深さを象徴しているように思います。

 

作品のタイトルにもなっている♪Born To Be Blueもなかなか味があります。 


Chet Baker - Born to Be Blue

 

欲を言えば、チェットの生涯をもう少し早い時期から描いてほしかったというような気もしますが、ただ、これだけ波乱万丈な人生ですから、ある局面を切り取って描かざるを得なかったのも理解できます。

いずれにしても、ジャズファン必見の映画であることは間違いありません。

 

クリスチャン・ボルタンスキー展@東京都庭園美術館

久々に、東京都庭園美術館に足を運びました。

ちょうど、クリスチャン・ボルタンスキー展が開催されていました。

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ボルタンスキーといえば、4年ほど前に豊島に展示されている「心臓音のアーカイブ」を見たことがあり、その異次元に迷い込んだ感覚が強烈に印象として残っていました。2006年には高松宮殿下記念世界文化賞を受賞されています。

今回の展覧会では、出展作品自体は割とこじんまりとしていたのですが、ボルタンスキーらしい展示でした。

これは《眼差し》という布に写真をプリントした作品と、《帰郷》という金色の塊の作品。《眼差し》は、ギリシア人を被写体とする写真を使っているとのこと。《帰郷》は、衣類を山にして重傷者を包むのに使われる金色の覆いをかけたものだそうです。

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《アニミタス》は、チリのアタカマ砂漠で撮影されたもの。標高2千メートルを超える高地にあるこの砂漠で、ボルタンスキーは数百の風鈴を設置しています。この風鈴たちはいずれは消滅することを前提に設置されています。 

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 《ささやきの森》は、豊島で撮影されたもの。《アニミタス》に比べると生命感が感じられる映像となっています。

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以下、ボルタンスキー自らが作品を解説しているので、参考になります。


Boltanski interview

 

それにしても、晴れた平日の昼間の庭園美術館はとても穏やかで、心が落ち着く空間です。

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とても都心のど真ん中にある空間とは思えません。

こうした都心の空間は大体が江戸時代の大名屋敷か明治の宮家の邸宅だった場合が多いですが、この庭園美術館朝香宮家の邸宅として用いられたものです。

こういう空間は是非今後とも末永く引き継がれていってほしいものです。

レイモンド・チャンドラー「リトル・シスター」

 

リトル・シスター (ハヤカワ・ミステリ文庫)

リトル・シスター (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

レイモンド・チャンドラーによる1949年の作品です。村上春樹氏の翻訳だけあって、すらすら安心して読めます。

 

私立探偵のフィリップ・マーロウの下へ、オーファメイという若い女性が依頼人として訪ねてくる。兄のオリンを探してほしいという依頼だ。

マーロウは、オリンの所在を追っていくうちに、オリンがギャング絡みのトラブルに巻き込まれていることに気付いていく。ホテルに行くとそこには簡易アパートに住む男の遺体があった。そして若い女性が逃げいていく。男の遺体のかつらの裏地から出てきたのは1枚の写真の受取証だった。その写真に写っていたのは、ハリウッド女優のメイヴィス・ウェルドと一人の男。

写真に写っている男は、殺し屋のギャングだった。写真に写っているときは、ちょうどギャングのボスが殺害されたときだったのだが、その殺し屋は刑務所の中にいたはずであった。その写真は、殺し屋が刑務所の中ではなくシャバにいたという証拠だったのだ。そして、その写真を撮った人物こそ、オリンだった。

オーファメイは、オリンからの連絡が途絶え、オリンがギャングから揺すろうとしたお金を独り占めしたのではないかと疑い、マーロウの下へやってきたのだった。そして、メイヴィスはオーファメイの姉であった。オリンはメイヴィスを使ってお金をせしめようとして、ギャングに殺された。そして、オーファメイはギャングからせしめたお金を持って、戻っていった。。。

 

ハリウッドも巻き込みながら展開していくストーリー展開は大変スリリングなのですが、最後、一体誰が誰を殺したのかがいまいちよく分からなくなってしまい、困惑していたところ、村上春樹氏の解説にも同じような指摘がありました。村上氏も、この小説を何度も読み返しているものの、結局誰が誰を殺したのかと訊かれると急には答えられないと述べており、それだけ、プロットにやや無理があるというのがどうやら衆目の一致するところと言ってもよさそうです。この作品を執筆していた頃、チャンドラーはちょうどハリウッドの仕事に忙殺されており、この作品の執筆に集中できなかったようです。

 

さはさりながら、この小説の雰囲気というか空気感という面で見れば、チャンドラーらしさにあふれていますので、読み終えた後はそれなりの充実感を味わえることは間違いありません。

 

「あの子を探して」★★★★☆

 

あの子を探して [DVD]

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チャン・イーモウ監督の1999年の作品です。10年ぶりに鑑賞しましたが、何度見てもシンプルで心打たれる作品です。

 

中国の内陸部の貧しい地域の学校に、代理の先生として連れてこられた13歳の少女ウェイ・ミンジ。児童の中に、ホエクーという貧しいやんちゃな男の子がいたが、ホエクーが家庭の事情で街に出稼ぎに連れていかれてしまう。

ウェイはホエクーを連れ戻しに行くことを決意。交通費がない中で、何とか街にたどりつくものの、どうやってホエクーを探せばよいのか分からず、張り紙を作成するものの、意味がないと他人から指摘され、テレビ局の入口で局長を捕まえようと粘る。それが功を奏して、局長の配慮で人気番組に出演し、ホエクーに呼びかける機会を得る。

ウェイは番組を見たホエクーと無事再会を果たし、視聴者からも学校やホエクーに多くの寄付が寄せられたのだった。。。

 

ウェイがテレビに出て、緊張しながらも、涙を流しながらホエクーに呼びかけるシーンは、とても素晴らし演技です。その後、ホエクーと再会を果たした後のほっとした穏やかな表情とのコントラストが大変見事です。

 

この映画を見ると、中国の内陸と都市部の格差が手に取るように伝わってきます。同じ中国といえども、飛躍的に発展を遂げている都市部に対し、内陸部はまだまだ取り残された感があります。

 

チャン・イーモウの作品は、初期の一部を除けば概ね個人的にお気に入りですが、中でもこの作品と『初恋のきた道』はとりわけ好きです。

アガサ・クリスティ「スタイルズ荘の怪事件」

 

スタイルズ荘の怪事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

スタイルズ荘の怪事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

アガサ・クリスティのデビュー作です。既にエルキュール・ポアロのキャラクターがしっかりと出来上がっているところが驚きです。当初はいくつかの出版社から原稿を送り返されたとのことですが、デビュー作にして、アガサ・クリスティらしさが出ています。

 

物語の舞台はスタイルズ荘という屋敷。女主人エミリー・イングルソープの下に最近になってアルフレッド・イングルソープが再婚の夫としてやってきた。屋敷にはエミリーの義理の息子であるジョンとその妻、ジョンの弟、エミリーの友人や旧友の娘などが滞在していた。そんな中で、エミリーが殺害されるという事件が起こる。そこにポアロがやってきて、謎を解き明かす。

 

どう見ても怪しいのは、アルフレッド・イングルソープに決まっています。財産目当てにエミリーと結婚したという魂胆は見え見えです。

しかし、当初逮捕されたのはジョンだった。ジョンは裁判にかけられるのだが、ポアロは誰を真犯人と思っているか、依然として明らかにしない。

結局、真犯人はアルフレッド・イングルソープだった。。。

 

紆余曲折あって、一番疑わしい人物が真犯人というある意味意外な展開は、アガサ・クリスティらしいといえばらしいのかもしれませんが、後の名作群に比べれば、やはりまだ未熟さが感じられるような気もします。でも、デビュー作において既に天才の片鱗は十分に感じられます。

 

 

「フェリーニのローマ」★★★★

 

フェリーニ・ワールド全開の作品です。自伝的要素が強い作品とされていますが、主人公が若き頃にジャーナリストとしてローマを訪れ、その30年後に映画監督として再びローマを再訪するという設定になっています。

 

主人公が最初にローマを訪れたのは、ムッソリーニの支配下で戦争が繰り広げられていた時代。それから30年後に映画監督として再びローマを訪れるが、若者たちは社会に不満を抱いている。居候先の下宿には、肥満の老女たちが堕落した生活を送っている。

シーンが次々と変っていき、地下鉄の工事現場では、少し掘るたびに遺跡にぶつかり、なかなか工事が進まない。

それから、主人公は娼館へ。低級の娼館と高級の娼館のそれぞれの様子が描かれる。

そして、教会の中で繰り広げられるファッション・ショーのシーン。枢機卿がショーを見ながら、次の僧衣が決まるという。

ノアントリ祭では大勢の人々がボクシングの試合に熱狂している。

そして、最後は若者たちがバイクに乗ってローマの街を疾走するシーンで終わる。。。

 

脈絡のないシーンが連続するのは、いかにもフェリーニらしい作品です。

 

作品中、アメリカ人の作家がローマについて述べているセリフが印象的です。

「ローマに住んでる理由を聞きたいんだろ?まず第一に、ローマ人の無干渉主義が大好きなんだ。それにローマは幻想の都だ。教会や政府、映画すべてが幻想を生み出す。我々も幻想の作り手だ。世界が人口過密で終焉に向かってる。何度も興亡をくり返したこの都市で崩壊を見届けたい。自滅する地球を眺めるには、ここが一番ふさわしい。」

この言葉にもしかするとフェリーニの思いが込められているのかもしれません。

 

独特の世界観と映像美はさすがフェリーニといった感じです。

國重惇史「住友銀行秘史」

 

住友銀行秘史

住友銀行秘史

 

バブルの時代に世間をお騒がせしたイトマン事件の裏側を実名で赤裸々に告白した衝撃的な本です。今でも現役の人たちも実名で登場するので、出版には余程の勇気が必要だったに違いありません。

 

著者の國重氏は当時住友銀行で業務渉外部部付部長をされており、イトマン社長の退任劇に深く関与します。当時の住友銀行では、磯田会長という絶対的な存在がおり、その寵愛を受けた河村氏が繊維商社のイトマンに送り込まれ、イトマン社長として事業の拡大を進めます。

その過程で、河村氏は伊藤寿永光氏という不動産のプロをイトマンに引き込み、その伊藤氏が許永中氏らとともに、イトマンを食い物にした、という話です。

磯田会長には寵愛する娘園子がおり、園子の夫である黒川洋氏が磯田会長とイトマンの間をつなぐ役割を果たします。

本書では、こうした放漫経営が繰り広げられるイトマンへの対応について、人事抗争と絡みながら右往左往する住友銀行の内部事情を赤裸々に暴露している点が大変興味深いところです。本書を読むと、銀行のガバナンスがいかにずさんであったか、臨場感を持って伝わってきます。

 

当時の住友銀行内部では、磯田会長、西副頭取らがイトマンの河村社長と親しい間柄にあり、それに対して、巽頭取、玉井副頭取、松下常務、國重氏らが、反磯田の立場で結託し、イトマンの実態を明らかにし、住友銀行がこれ以上の損害を被るのを防ごうと尽力しているという構図がありました。

しかし、それぞれが一応のスタンスを持ちながらも、人事抗争が絡む中で、その意思が必ずしも一貫していたわけではなく、保身の観点から各人の気持ちが揺れ動く様子も伝わってくるところが興味深い点です。まさに組織人としてのさがが見え隠れしています。

 

著者はイトマン問題を世間に知らしめるために、日経記者と組んで「内部告発状」を政府関係者や住友銀行幹部に送付します。それは、あたかもイトマン内部の関係者が差出人であるかのような体裁でしたが、実際は國重氏が出していたことを、本書で告白しているわけです。事件から四半世紀が経過しているとはいえ、これは衝撃的な事実です。

 

本書からは、住友銀行の膿を出し切りたいという著者の執念が伝わってきます。河村社長や磯田会長の退陣という目標に向けて熾烈に暗躍するわけですが、他方で、それらを達成した後の著者の「無力感」も表明されています。

 

では、そうした著者の「無力感」はどこから来ているのか?

 

これは私の憶測でしかありませんが、著者は純粋に自分の正しいという理想に向けて行動したわけですが、そのための手法としては、人事抗争のような形を取らざるを得なかったという点にあるように思います。組織の中で自分が正しい道を実現するためには、それを実現できる人事体制を組まなければならないわけで、それは結局人事抗争に帰着せざる得ないというのが組織人の性ということなのでしょう。

 

内容的には決して清々しいものではありませんが、銀行あるいは組織のガバナンスについて考える上で極めて有用な本でした。